2015年10月29日木曜日

英語読書会報告 次回は2015年11月1日です

次回の英語読書会は、2015年11月1日(日曜日)午後2時からです。
「MERE CHRISTIANITY」のBook 4「人格を超えたものー三位一体論序説(BEYOND CHRISTIANITY: OR FIRST STEPS IN THE DOCTRINE OF THE TRINITY)の8章「IS CHRISTIANITY HARD OR EASY」を勉強します。
Native Speakerが2人も参加しているという恵まれた会です。また、翻訳を読んで参加される方もおられます。どうぞ自由にご参加ください。



2015年10月の英語読書会では、MERE CHRISTIANITY BOOK4 「人格を超えたもの-三位一体論序説(BEYOND PERSONALITY: OR FIRST STEPS IN THE DOCTRINE OF THE TRINITY)」の第7章「キリストのふりをしよう(Let’s Pretend)」を勉強しました。以下は、発表担当の井上さんのメモを基に作成したものです。

  1. これまで「神」はどんなもので、何をしたかについて話してきたが、ここからは我々は何をすべきかについて話す。
  2. クリスチャンが祈る時、最初に「私たちの父よ」と唱える。それはまぎれもなくあなた自身を神の子キリストの立場に置いていることである。つまりキリストのふりをしているのである。もちろんあなたは自分が神の子などではないし、意思も興味の対象も神のそれとは全く違うことを知っている。だからキリストの真似をするなどということは本来ならとんでもないことだ。しかし不思議なことに、神は我々にそうするように命じているのだ。
  3. 「ふり」には2種類ある。人を助けるようなふりをして実は助けないというのは悪いふりである。しかし人を真実に導くために演じるふりは良いふりである。本当はあまり好きではない人でも、好きであるようにふるまっていると、たいていの場合数分後には以前より友好的な関係ができるものだ。多くの場合良いものを得ようとするならば、すでにそれを得ているようにふるまうことだ。そうすると自然に良い物が得られる。子供が大人の真似をして兵隊ごっこや、お店屋さんごっこをすることはとても大事なことだ。大人のまねをすることで筋肉が鍛えられたり、知恵が発達したりして成長が促進される。
  4. 同じようにあなたがキリストの真似をしはじめたとたんに、それはたんなる真似でなく真実になることに気付く。同時に、神の子ならありえないようなものがあなたの心の中に存在していることを知るであろう。その時はそれをやめなさい。そして、手紙を書いたり、奥さんの皿洗いの手伝いをしなさい。
  5. すると、あることが生じてくることを知るであろう。人であり神であるキリストがあなたのそばにいて、あなたの「ふり」が現実となるのである。これはあなたの良心があなたに何をすべきかを命じているというようなしゃれた言い方ではない。単にあなたの良心に問えば一つの結果を得るが、キリストを装っているということを覚えているならば、別の結果を得る。あなたの良心が悪いと判断しないような事柄であっても、真剣にキリストのようになることに努めるならただちに取りやめるものが沢山ある。なぜならば、あなたはもはや単に正しい(right)とか間違っている(wrong)とかについて考えていないからである。キリストという人格(a Person)から良い影響(good infection)をうけつつあるのである。それは決められたルールに従うということより肖像画を描くのに似ている。不思議なことであるが、ある意味で規則を守るよりはるかに難しいが、別の意味ではるかに易しいことである。
  6. 真の神の子があなたのそばにいる。彼はあなたを自分のようにしようとしているのである。彼は、いわば、命と思い、すなわち神の子の命(Zoe)をいわば注射(inject)しようとしている。すなわち、ブリキの兵隊さん(the tin soldier)を生ける人(a live man)にし始めているのである。
  7. 「私はいろんな人に助けられたことはあるが、目に見えないキリストに助けられたことは無い」という人がいるが、それは、第一次戦争の時に「パンが不足したとしても、我が家ではいつもトーストを食べているから影響はない」と言った婦人に似ている。パンがなくなればトーストは出来ないのだ。同じようにキリストの助けが無ければ他人の助けはない。キリストはあらゆる方法を通して私たちに働きかけている。いわゆる「信仰生活」を通してだけでなく、自然界や、私たちの肉体、書物、時には反キリスト的に思われる諸経験などを通して働きかけてくる。まじめに教会に通っていた若者が、ある時自分はキリスト教を信じていないと気がついて教会に来なくなったとしても、彼が正直でありかつ親を困らせるためではないならば、そのときキリストの霊は今までより一層彼に近づいていることでしょう。神はいつも人を通じて互いに働きかけるものだから。
  8.  人は他の人にとってキリストの鏡、またはキリストの運び屋(carriers)である。しばしばキリストを運んでいるということに無自覚である。この「良い感染」は、感染の自覚症状のない人々によっても伝染しうる。クリスチャンでない人々が私を助けてキリスト教を信じるようになった。しかし、通常はクリスチャンがそれを伝達する。だからキリスト者の集まりである教会は、互いにキリストを伝え合う場所として非常に重要なのである。2人のクリスチャンがキリストによって働く時、その働きは1人の時の2倍ではなくて、16倍にもなる。
  9. しかし、次のことを忘れてはいけない。生まれたばかりの赤ちゃんは、母親からミルクを飲むが最初はそれが母親であることを知らない。同じように我々ははじめその人の背後にキリストがいることに気付かずに援助を受けることが多い。しかしいつまでも赤ん坊でいてはいけない。私たちは本当の与え手を知らなければならない。我々は助けてくれるすべての人に感謝し、ほめたたえ、愛すべきだが、真の助け主に気がつかなければいけない。人は、たとえとても賢く素晴らしい人であっても、間違いを犯し最後には死に至るものであるから、あなたは信仰のすべてを人に依拠してはいけない。砂で多くの素晴らしいものを作ることができるが、その上に家を建ててはいけない。
  10. ここまでくると、今や新約聖書が常に語っていることを知り始めるのである。新約聖書の中には、「新しく生まれる」(ヨハネによる福音書3:3)、「キリストを着る」(ガラテア3:27)、「キリストがあなたがたの内に形づくられる」(ガラテア4:19)、「キリストの思いを抱く」(第1コリント2:16)などが語られている。これらの言葉は、クリスチャンはキリストが言ったことを読み、実践するように努力すべきであるということ(丁度、プラトンやマルクスの言葉を読み、実践するというような言い方と同じであるが、)を素敵に表現したものだ、という考え方は正されるべきである。これらの言葉は、真の人キリストが、今あなたが祈っているまさにその場所においてあなたに働きかけているということである。それは2千年前に死んだ一人の善良な人の物語ではなく、今もあなたと同じように生きており、天地を創造したその神があなたと共にいて、あなたの内にある古い自己を殺し、神が持つ性質のものに置き換えるのである。最初はちょっとの間だけだが、だんだん長い期間、そして最後には、永久に、全く違ったものすなわちキリストや神と同じものに換えられる。そして神の力、喜び、知識、永遠性に与かるのである。そして、直ぐに次の2つのことを発見する。
    1. 我々は特定の罪深い行いをする以外に、罪深い存在であることを認識し始めるのである。例えば私が夕べの祈りを始め、今日の罪を告白する。告白の内容はほとんどが愛の徳(charity)に関するものである。私はすぐむっとしたり、キレたり、嘲ったり、無視したり、攻撃したりする。それはあまりにも予期しない突然のことだったので、気持ちを立て直す余裕がなかったと言い訳する。しかし、それは実態をよく理解してない言い訳だ。防備を外された時の行動はまさにその人の本質だ。部屋にネズミがいる時、突然入ればそのネズミを見ることができる。しかし突然がネズミを作ったのではなく、ネズミが逃げる余裕がなかったのだ。同じ様に挑発が突然であったことが私を怒りっぽくしたわけではなく、私はもともと怒りっぽい人間だったのだ。ネズミがいつも部屋にいるように、憤りや復讐心はいつも私の心の中にいるのだが、そこは私の意思が届かないところだ。人は自分の行動についてはある程度コントロールすることができるが、隠れた悪い気質を表に出さないようにすることは自己努力では到達できない。クリスチャンになって初めて、そういうことは神によってのみ出来るのだという事がわかる。
    2. これまで私はすべてのことは自分自身がしたことだと言ってきた。しかし、実は神がいて、神が全てのことをしているのだ。我々はなされるままにしているだけだ。「ふり」をさせているのも神だ。三位一体の神は、自己中心で、貪欲で、いつも不満で反抗的な人間を前にしていう、「あなたがたはただの生き物ではなく神の子のふりをしなさい。キリストは人間だが、神が人間になったものだ。また聖霊にみちたふりをしなさい。実際にはそうではなくてもそうであるようなふりをしなさい。そしてそれが現実になるまでふりをし続けるのだ」。神はあなたをキリストのように見せる。キリストはそばにいてあなたと一体となる。神をこのように信じることは最初はとても奇妙に思える。しかしそれは、低いものを高いところに引き上げるときにいつも使うやり方だ。母親は幼い子供にとっくの昔から言葉が理解できているかのように話しかける。飼い犬も人間のように扱っていれば、やがてほとんど人間のようになる。
  11. 話し合ったことは次のようなことである
    1. “pretend” するということは、聖書の中で「主にならうものとなりなさい」といっていることに相当すると思われる。ただ、「洗礼を受けたあなたがたは」とか「神の恵みによって」という条件があるし、たとえ一瞬はそう思ってもやはり「本当にこれが神の心にかなっている」という確信はなかなか持てないものだ。やはり ”pretending” だけではなく “honestly believing” ということが必要なのだと思う。
    2. 「ふりをする」という言葉は、日本人には違和感がある。キリストに見習うというような言葉の方が分かりやすいね。
    3. pretendという言葉は、ある意味で、読者に「ハッと思わせる」効果を狙った言葉ではないか。
    4. 自分がある状態にあるときに、イエス様はどうされるかな、と考えることが大切であるということですかね。
などが話し合われた。

なお、話し合いの中で引用された聖書の箇所は、次の通りである。
  1. 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。(フィリピ 3:17)
  2. あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤ 3:26-27)
  3. わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくても、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。(コリントⅠ13:12)