2015年9月26日土曜日

英語読書会(2015年9月)レポート



2015年9月の英語読書会では、MERE CHRISTIANITYBook 4「人格を超えたもの-三位一体論序説(BEYOND PERSONALITY OR FIRST STEPS IN THE DOCTRINE OF THE TRINITY)の第6章「二つの注釈」(TWO NOTES)を勉強しました。

1.
神は頑固なおもちゃの兵隊さんの代わりに息子を欲するならば、なぜ最初から多くの息子を生み出さ(beget)なかったのか。そしてなぜ彼らに命を与えるために困難かつ苦痛に満ちた過程をたどることになったのか。

2.
この質問に対して、一つの答えは簡単なことである。それは、一つの創造物(creature)を息子にすることは、自由意志によって人間が神に背を向けなかったら困難なことではなかったということである。しかし、人間は与えられた自由意志を用いて神に背を向けてしまったのである。自由意志がそもそも与えられるのは、それがなければ人間は無限の幸福を知ることができないからである。

3
答えの困難な部分というのは、次のようなことである。すべてのクリスチャンは、神はただ一人の子を与えてくださったということを受け入れているのに、多くの子がありえたのではないかという問いをし続けることは、他のすべての事実がこれに依存している盤石のごとき不変の事実について語る時に、それがそれ以外のものでありえたのではないかと問うことであり、」それはばかげているからである。

4.
しかし、このこととは別に、父なる神が多くの子を産んだという考えに納得できないものがある。多くの子いるとすればその子たちは何らかの形で違ったものでなければならいだろう。その違いは、異なる空間を占め、異なる物質からできているということを説明することになるが、これは「自然」つまり創造された宇宙を持ち出さなければならない。空間や物質を引き入れなくても父なる神と子なる神との区別を理解することができるのだが、数人の子を考える場合には、こっそり宇宙像を想定して考えなければならない。そういう問題がある。

5.
また、全人類はある意味で一つのもの、一つの木のようなものであるという考えを述べたが、そのことと個々人の違いは問題にならないという考えと混同してはならない。人間は個々に違うが、それぞれが皆役割を果たしているのである。あなたが一つの有機体に属することを忘れるならば、個人主義者(Individualist)になってしまう。また、それぞれが持つ違いを抑圧するならば、全体主義者(Totalitarian)になってしまう。でもクリスチャンは、どちらであってもいけない。

6. 話し合いでは、
・自由意志を用いて神に背かなければ、人間を神の子にすることは容易であった。しかし、自由意志を用いて背いてしまった。そのために、神の子にするプロセスは、大変困難になったということですね。

・生み出す(Beget)神と生み出される(begotten)神の子イエスとの関係があるが、生み出す(beget)というのは、作る(make)とは違って全く同質のものを生み出すことである。その神の子が複数あることを想定するためには、その神の子同士はどう違うのかということを説明しなければならない。そうなると、被造物の世界である空間や物質を説明のために導入しなければならない。そうすれば、大前提(Rock bottom)としている神と神の子との関係が説明できなくなる。したがってそのような考えは取り入れることはできない、ということですかね。難しいですね。

・ヨハネ福音書の1章を読むと、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった」(1:1-2)とある。この言がイエスであり、神そのものであると表現されている。だから、その言が複数あるという考えは、取りえない、という説明のほうが分かりやすい。

・第1コリント1212-6に、私たちは一つの体の多くの部分であるという考えが説明されている。ルイスが強調していることも同じことであろう。この部分は、組織論としても注目されるところですね。

などのことが話されました。


次回は、
2015年10月4(日曜日)午後2時からです。

Native Speakerが2人も参加しているという恵まれた会です。
また、翻訳を読んで参加される方もおられます。どうぞ自由にご参加ください。