2014年10月5日日曜日

2014年9月の英語読書会


20149月の英語読書会では、MERE CHRISTIANITYBook 39章「キリスト教的愛」(Charity)を勉強しました。発表を担当したSさんは、おおむね次のようなメモを作成しました。

1.    Charityはかつて「施し」と言われていた意味に現在は使われている。しかし元々の意味はもっと広い意味があった。キリスト教においてcharityは「愛」を意味する。この「愛」は「感情」ではなく「意志の状態」である。自己愛は自ずと持っているが、他者への愛は学ばなければならない。
2.      キリスト教的隣人愛は「好き」とか「愛着」とは大きく異なっている。人を好きであることは「罪」でも「徳」でも無い。それは食べ物の好き嫌いが罪でも徳でもないのと同じで単なる事実である。好きや愛着を持てば容易にその人々を思い遣る(charitable)ことができる。できるだけ人々を好きになることは行わなくてはいけないことである。なぜなら、好きということはcharityの徳ではないがその助けになるからである。その一方で、特定の人を好きになることが、その他の人にuncharitableunfairになる恐れもあることをきっちり見極めなければならない。例えば、溺愛する母親は愛着によって子供を甘やかしかねない。すなわち自身の愛着を満足させようとすることが後々その子の真の幸福を奪いかねない。
3.    Charitableになる方法は、自分が隣人を愛しているかどうかと悩んで時間を無駄にせず、あたかも愛しているように行動すること。するとほどなくその人を愛するようになる。もし嫌いな人を傷つけたら、もっとその人を嫌いになる。嫌いな人に善行をすれば、自分がそれほどその人を嫌いで無くなっていることに気付く。但し、例外がある。神様を喜ばせるため、charity の法則に従うのではなく、自分が素晴らしい寛大な人間だとその人に示すために善行を行い、彼に負い目を負わせ、彼が感謝するのを待っているとしたら、落胆する。(人々は愚かではなく、目ざとく、ひけらかしか支援かを見抜く。)(自分と同じように)神様に創造された者として他者に善行をし、自身の幸せを願うようにその人自身の幸せを願うなら、ほんの少しだけ愛することを学ぶ、少なくとも少し嫌いではなくなる。
4.      結論として、キリスト教的愛charityは、センチメンタルで頭が一杯の人々には冷たく、愛着と全く違うと響くかも知れないが、それでも愛着へと導く。クリスチャンと世俗的な人との違いは、世俗的人はその人を好みだという理由で特定の人を親切にもてなす。クリスチャンは全ての人に親切にしようとすることにより、親切にすればするほど、最初は好きなんて想像もできなかった人々をも好きになっている自分を発見する。
5.      この霊的法則は逆にも働く。ドイツ人は多分、最初はユダヤ人を嫌いだと理由で酷く扱っていた。後に酷く扱ったゆえにさらに憎んだ。残酷になればなるだけ、より憎むようになる。そしてより憎めば、より残酷になる。――悪循環である。善も悪も複利で肥大する。それ故に小さな日々の決定がとてつもなく重要である。
6.    ある著者達はcharityという言葉を人間の間のキリスト教的愛ばかりではなく、人間への神様の愛や、神様への人間の愛を表わすのに使う。人々は神様を愛すべきと教えられるが、自己の中にそのような感情を見出せない。では、どうしたらよいのか?「もしわたしが本当に神様を愛していたら、どうするだろう?」と自問しなさい。
7.    神様が最も大切にされることは「感情」ではない。神様へのまたは人間へのキリスト教的愛は「意志」の問題である。もし神様の「意志」を行おうとするなら、「汝の主である神を愛せよ」という戒めに従う。もし神様が喜ばれるなら、愛の「感情」を私達にお与えになる。私達は愛の感情を自分達のために創造できず、権利として要求してはならない。しかし、素晴らしいことに、私達の感情は生じたり、消えたりするが、神様の私達への愛は生じたり消えたりしない。神様の愛は私達の罪や無関心で倦むことがない。例えどのような犠牲が私達に、また神様に必要になろうとも、私達がそれらの罪を赦されるという神様の決意は揺るがない。

話し合いでは、次のような意見があった。

1. 私たち自身の決意で愛するということそれ自体ができない場合があるのではないか。それも神様にゆだねられているのではないか。
2. ここでは、できるか、できないかということではなく、ルイスは、努力するという意思が大切であると言っているのではないか。
3. 「嫌いなものは嫌い」なので、好きになることは難しい。相手が近寄ってくれれば別だが。
4. 渡部和子さんが言っていることですが、「笑顔で挨拶しても笑顔で挨拶を返してくれないときには、相手を愛せないと思ってしまうけれども、自分の笑顔を神様のポケットにしまっておいて、いつでもその笑顔を必要とする人に使うようにしたい」とうことがありますが、それも努力ですね。
5. クリスチャンは聖書にこんなことが書いてあるから、良いことを行うのだということをいうと、人は偽善としてとる。そのときにはどうするのか。
6. 人はいろいろなことを考えるので、しょうがないのではないか。
7. 自分が生きているということに関して神はどう用いてくれるのか、ということに耳を傾けることが大切なのではないか。しかし、難しいことだけど。
8. 幼児教育の本を読むと、子供が憎たらしいことをいうのは辛い経験があってそのことを言うことを知り、もっと愛がその子に必要だと考えるようになった。
9. 自分には意識して愛するという努力をしないと、とても愛するということはできない。
10.   「あなたの隣人を自分のように愛する」ということを言われても、我々は実践できない。しかし、「愛する」という努力をして接することが大切である。不思議なことに相手が変わってくることもある。教会の交わりでも、職場でも、家庭でもその努力が大切なことは経験的に知っているのではないか。
11.   人から迷惑を受けているからその人を愛せないと思うけれども、説教の中で、実は私たち人間は、神様に迷惑をかけている存在であるから、そのことを考えるべきだと話しておられたが、そうかもしれない。
12.   自分の家とお隣の家の境界を守らない隣人がいるのだが、その隣人を愛するということは実際難しい。

次回の英語読書会は、2014年10月5日午後2時―3時半です。Book3 の第10章「希望(Hope)」に入ります。英語が得意でなくてもどうぞご参加下さい。Mere Christianity の訳本を読んで参加する方々もいます。