2014年10月21日火曜日

2014年10月の英語読書会「Mere Christianity」報告


201410月の英語読書会では、
MERE CHRISTIANITYBook 310章「希望」(Hopeを勉強しました。
発表を担当した大江さんの作成したメモの要旨は次の通りです。

1.   希望、すなわち、絶えず永遠の世界を待ち望むことはクリスチャンがなすべき事柄のひとつである。それは現実のこの世界をそのままに捨て置くことではない。歴史を振り返ってもわかるとおり、この世のために大きな足跡を残した人々こそ天国への強い思いを抱いていた。

2.   天を目指せば地は「加えて」与えられる。しかし、地を目指せば天地ともに失う。これは奇妙な法則にみえるかもしれないが、例えば健康の問題を考えてみよう。健康は大きな恵みだが、ひとたび健康を主要な直接の目的にしてしまうと、どこかが悪いのではないかと絶えず気にする偏屈者になってしまう。健康を得るためには何かほかのこと―食べ物、ゲーム、戸外などーを求めるようにしなくてはいけない。

3.   亡くなった友との再会という意味以外に、「天国」を求めることは非常に難しい。
  その理由は、
  ①私たちが受けてきた教育は心をこの世に集中させる傾向があり、その訓練を受けてこなかったということ。
  ②たとえ天国に対する真の希求が我々の内にあってもそれに気づかないということ。私たちが心の奥を覗きこむことを知っていたなら、ほとんどの人々がこの世では得られない何かを切実に望んでいることに気が付くだろう。この世にはその何かを与えてくれるものが-結婚、旅行、学問生活などーたくさんあるのだが、しかし、それらは決して最後まで満足させてはくれない。どんなに優れた、最高のものであっても、当初の憧れは現実の内に色褪せてしまうのだ。

4.   この事実に対処するやり方が3つある。二つの間違ったやり方と一つの正しいやりかたである。
(1)愚かな人間のやり方 (The Fool’s Way)
満足が得られないのを対象のせいにして、次から次へと対象を変えながら人生を送る。これこそ本物だと思いながら、常に失望する。

(2)幻滅した「分別ある」人間のやり方(The Way of the Disillusioned ‘Sensible Man‘
若いころ抱いていた(虹の端にあるという)宝への憧れは捨て、多くを望まず分別ある人間のような生き方をする。(1)の人間よりは幸せで、社会の厄介者にはなりにくい。もし人間が永遠に生きる存在でなければ、これが最善の生き方だろう。しかし、もし永遠の幸福が私たちを待っているとしたら。もし虹の端にほんとうに達することができるとしたら。その場合は、なんと残念なことではないか。(死の次の瞬間に)いわゆる「常識」のせいで無限の幸福を享受する能力を抑え込んでしまったことに気づくとは。

(3)クリスチャンのやり方 (The Christian Way)
①生き物が欲求をもって生まれてきたのはそのような欲求を満足させるものが存在しているからだ。たとえば、赤ん坊が空腹を感じるのは食べ物があるから。アヒルが泳ぎ たがるのは水があるから。
②もし自分の中にこの世の経験では満たしえない欲求があるとすれば、その説明は自分はもう一つの別の世界のために造られたのだということである。この世のどんな快楽 もこの欲求を満たすことはできないとしても、だからといってこの宇宙がまがいもの ということにはならない。おそらく地上の快楽はその欲求を満足させるためにではな く、本物の願望を呼び起こし、示唆するためにあるのだ。
③そうだとすれば、私は地上のさまざまな祝福を軽蔑したり、感謝を忘れたりしてはならない。また、一方でそれらの祝福を何か他の物(本物の永遠の幸福?)と取り違えな いように注意すべきだ。この世の祝福は本物のある種のコピー、反響、蜃気楼にすぎ ない。私は自分の中に、本当の国、すなわち天国への欲求を生かし続けて、天国への 道を突き進み、また他者もそうなるように手助けすることを人生の最も重要な目的としなければならない。

5.   「天国で永遠にハープを弾きながら暮らすなど望まない」などと言ってクリスチャンの「天国」への希望を冷やかすような軽薄な人間のことなど気にする必要はない。聖書に出てくるハープ、王冠、金などのイメージは表現しえないものー天国の歓喜と無限性などーを表す象徴的な試みにすぎないのだから。これらのシンボルを文字通りに取る人は、キリストが「鳩のようになりなさい」と言われたのは「卵を産みなさい」という意味だと考える人と同じようなものだ。

聖書の言葉(参考)
Corinthiansコリントの信徒への手紙一 13:13 「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。  
Romansローマの信徒への手紙5:5 「希望はわたしたしを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
Romansローマの信徒への手紙8:24、25 「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」
Titusテトスへの手紙3:7「こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」
Peter ペテロの手紙一 1:3 「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、いきいきとした希望を与え、」
Hebrewsヘブライ人への手紙10:23「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようにしっかり保ちましょう。」

6. 話し合いでは、次のような発言がありました。
      文明(Civilization)が私たちの主たる目的であるとすれば、私たちは文明を救うことができないという一節があるが、本当にそうだろうか。文明には、科学の進歩以外に、自由、個人の尊厳の重視、言論の自由なども含まれると思うが。
      ルイスは、幸せがこの世とは別の世界にあるという考えは、ルターの考えと違うのではないか。ルターは、この世において本当の救いが成就しているという考えかたである。ルイスはカトリック的な考え方をしている。カトリックでは、聖書以外に聖職者の言葉を並行して重んじている。クリスチャンになるということは、天国に行けると考えることではなくて、自分を救ってくださる方がイエス・キリストであると信ずることではないかと思う。
      本当の国(国籍)は、「天にある」という考えは、まさに聖書にもある考えではないか。また、カトリックでは、聖職者の言葉を重んじるというが、ガリレオの地動説に反対した自分たちの考えが誤っていると考えれば、500年たって修正もしてもいる。また、信仰義認も受け入れている。一方、プロテスタントでも、実際上私たちは牧師の考え方をやはり重んじているのではないか。私は、カトリックとプロテスタントの違いというのは、説明のニュアンスの違いという程度ではないか、と考えている。
      コリント1の1312節に「今は鏡におぼろに映ったものを見ていることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」とあるが、これも現実の世界ではなくて、本当のものを見るのは、今とは別の世界という考え方ではないのか。
      ルイスは様々な地上の喜びを否定してはいない。「地上の快楽はその欲求を満足させるためにではなく、本物の願望を呼び起こし、示唆するためにあるのだ。」という考えに惹かれる。地上の美しさ、歓喜は、象徴的に天国の素晴らしさを教えてくれている、という点である。
      受洗した時にキリスト教は本物だなと思ったが、それはより具体的には何かといえば、キリストに示された愛であった。それに心を動かされて、受洗した。三浦綾子の作品や、遠藤周作の「深い河」もその愛を伝えているのではないか。死んだら天国に行けるからということが受洗の動機ではなかったし、全く考えていなかった。ただ、クリスチャンになった後は、聖書のいろいろな天国についての教えも「そういうものか」として受け入れている。しかし、戦国時代のキリシタンの人たちは、ルイスと同じく、死後天国に入るということを固く信じていた。そこに「希望」があった。そして、迫害や拷問に耐えた。新井白石と出会ったヨハン・シドチやシドチを通して受洗した長助・ハルもその信仰をもっていた。そこが、正直に言って、私にはうらやましいなという思いがある。死んだあとのことを固く信じている人は、ルイスもそうだが、幸せだと思う。
      「何を今あなたは考えていますか」という司会者のご質問があったが、私は今もっぱら考えているのは、自分のことより両親のことである。両親をどのように見送るかが一番の関心事である。ただ、その親が年取ってから我欲が強くなってきた。
      自分の親戚の人は、仏教徒であるが、死を非常に恐れている。しかし、クリスチャンはそれほど恐れてはいないのではないかと思う。


7.次回は、2014112(日曜日)午後2時からです。
  個所は、MERE CHRISTIANITYBook 311章「信仰」(Faithを勉強します。
  Native Speakerが2人も参加しているという恵まれた会です。
  また、翻訳を読んで参加される方もおられます。どうぞ自由にご参加ください。