2014年7月19日土曜日

2014年7月の英語読書会




2014年7月の英語読書会では、MERE CHRISTIANITYのBook 3第8章「最大の罪」(The Great Sin)を勉強しました。

1. 世界中の人間がだれ一人として、それから自由でいられない一つの悪徳がある。他者の中にそれを見て嫌うが、クリスチャンを除いては、自分がその罪を犯していると想像することもないものである。この悪徳は、高慢(Pride or Self-Conceit)であり、これと正反対の徳は、謙遜(Humility)である。キリスト教の教師たちによると、本質的な悪、最大の悪は高慢であり、神に反するものである。これに比べれば不貞や怒りや貪欲などの他の悪は取るに足りないものである。高慢な人ほど他者の高慢を嫌う。重要なのはそれぞれの人の高慢さは他者の高慢さと競っているということである。

2. 高慢は本質的に競争的(competitive)である。それは高慢の本性そのものによる。高慢な人は何かを持つことに喜びを感じるのでなく、他者より、より多くを持つことに喜びを感じる。彼らは他者よりも、より金持ちであり、より賢く、より美貌であることを自慢する。人が高慢さを感じるのは自分と他者を比較することによってであり、他者より上にいる喜びなのである。競う要素がなくなってしまうと高慢も消えてしまう。

3. 性衝動も貪欲も時には競争的になることがあるが、高慢な男はその女が欲しいからではなく、自分のほうが立派であることを証明するために他者の女性を奪う。自分が必要とする以上に多くのものを獲得しようとするのは自分の力を示すためである。人々が貪欲や利己主義のせいにしている殆どすべての悪は高慢による。 

4. 性衝動や貪欲は高慢とはちがう。貪欲は欲しいと思ったお金や権力を何としても得たいという気持ちであるがそれには限度がある。全部得られた後に、自分の力を示すためにさらに欲しいと思うのが高慢である。

5. クリスチャンの人々は正しい。世界が始まってから、すべての国、すべての家庭での悲惨の主な原因は高慢である。高慢はいつも敵意(enmity)を意味する。人と人との間ばかりでなく神に対しても敵意を有する。神に出会うとき、あなたたちはあらゆる点で無限に優れているものに直面する。神をそのようなものとして理解し、それと比べて自分は無であることを知らなければ神を知ったことにならない。高慢な人は物や人を見下している限り上にあるものを見ることができない

6. そのことは重要な質問を提起している。明らかに高慢の塊のような人々が神を信じているということはどうしてなのか。また、自分自身、非常に信仰心が厚いと考えているのはどうしてなのか。彼らは想像上の神を礼拝している。理論上では自分が無に等しいことを認めている。しかし、いつも「神は彼らをよく思い、普通の人よりはるかに立派であると考えている」と想像していて、神に対して何らの謙遜もない。世の終わりにキリストに「あなたたちのことは全然知らない」と言われる人たちであり、私たちの誰もが、何時でもこの死のわなに陥る可能性がある。私たちの信仰生活が、ほかの誰かよりも私は善良だと感じさせるなら、それは悪魔に動かされているのであって、神によるものではない。神の御前にいることの真のテストは自分についてまったく忘れるか、自分を小さな汚れたものと見るかである。全く自分を忘れる方がよい。

7. 高慢は、私たちの信仰生活の中心に密かに入り込む可能性があるというのは、恐ろしいことである。高慢は純粋に霊的(spiritual)なものであり、とらえがたく命取りになる重大なものである。高慢は霊的な癌(spiritual cancer)である。その癌によって愛することも、満足することも、常識さえも食い尽くしてしまう。高慢ほど悪質でない悪徳は私たちの獣性(animal nature)を通して生まれてくるが、高慢は地獄(Hell)から直接来るものである。

多くの人はそれが体面にかかわると考えて、臆病や欲望や不機嫌を高慢いわゆる自尊心によって克服する。でも、悪魔はこれを見てほくそ笑んでいる。高慢と言う独裁者に私たちの心の中を支配させている限りは。

8. 高慢について誤解のないように注意しなければならないこと

① 褒められて喜ぶのは高慢ではない。先生によく勉強してきたと褒められた子供、キリストから「よくやった」と言われる魂は喜びを感じる。その喜びは自分が本来持っているものに由来するのでなく、他者を喜ばせたという事実に存在する。問題なのは先生やイエス様を喜ばせたと考えるのでなく、自分はよくできる、自分は優れた信仰者だと考えることから出てくる。他者が褒めてくれたことに全く関心を示さないのは悪に落ちていく。虚栄は悪性の最も少ない高慢の一種である。何故なら自分自身が立派であるという考え方はない。ただ、他者に褒められたいというのが虚栄であり、他者を尊重しているので許されやすいものである。真の悪魔的な高慢は他者を見下していて、彼らがどう思うか気にしないということである。神がどう思うかを注意しているが故に他者が思うことを気にしないことはありうる。徹底した高慢さは虚栄心を抑える役目を果たすことがある。これは悪魔の喜ぶことである。

② 自分の父親や自分の属する連隊を自慢する(proud of)とき「暖かい気持ちで感嘆する」と言う意味なら問題はない。その場合、優れた父親、有名な連隊に属しているという理由で自慢することは欠点ではあるが、自分以外のものを愛し、尊敬することは霊的滅亡から一歩距離を置いている。

③ 私たちは神が人間の高慢さに腹を立てているのでそれを禁止していると考えてはならないし、人間の謙遜は神ご自身の威厳さによって要求されていると考えてはならない。神はご自分の威厳さを全然考えていない。神は私たちが自分をよく見せようと着飾っている愚かな着物を脱ぎ棄てるようにと努力されている。私(Louis)も、もっと謙虚であればよかったと思う。そうすれば、偽りの自分を脱ぎ捨てて、安堵や慰めなどについて、もっと語れたのに。

④ 謙遜な人というのは調子がよくお世辞たらたらの人でなく、快活、聡明で、あなたの言ったことに関心を持ってくれる人である。謙遜を獲得する方法はまず自分が高慢であることを認識することである。


話し合いでは、

1. Prideという英語は、良い意味で使うことが多いように見えるが、英語としてよく理解できる言葉なのか、という質問に対して、native speakerの説明では、良い意味と悪い意味と両方あるということでした。確かに、英語の聖書では、「高慢」または「Proud」と言う言葉は、使徒書には、下記の例のように、多く使われています。

(使徒書)
a. Rom 1:30 “and speak evil of one another; they are hateful to God, insolent, proud, and boastful; they think of more ways to do evil; they disobey their parents”( ロマ1:30 「人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい」)

b. 2Co 10:5 “we pull down every proud obstacle that is raised against the knowledge of God; we take every thought captive and make it obey Christ.”( 二コリ 10:5 「神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ」)

c. 1Ti 3:6 “He must be mature in the faith, so that he will not swell up with pride and be condemned, as the Devil was.”( 一テモ 3:6 「監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。」)

2. 文中(123頁)に「高慢は本質的に競争的である。それはどんどん進んでいく。もしも私が高慢な男であるならば、世界で私よりも権力があり、より金持ちであり、より賢い人間がいる限り、彼は私の競争相手であり、敵である」と言う表現がありますが、すこし大げさではないか、という質問に対して、マックス・ウェーバーの理念型で語られているという説明がありました。理念型で語ることにより事柄の本質を明確に説明できるようになります。(理念型:ウェーバーの社会科学方法論の重要な概念のひとつ。ある現象について、現実をありのままに再現するのではなく、現実には分散的に存在している諸特徴を取り出し、それ自身矛盾のないように構成したもの。現実に対するあるべき規範ではなく、実在の現象と比較し、またその文化的意義をあきらかにするための手段。<広辞苑>)

3. 高慢は、愛の可能性、満足の可能性、常識の可能性も食い尽くすという表現があるが、「愛の可能性」は、高慢は自分だけを考えるという点からそれを食い尽くすというのはよく分かる。「満足の可能性」については、高慢は、常に「競争的」だから、満足は得られない、という点からよく分かる。最後の「常識の可能性」だが、最近のニュースで、福島県警の上司が部下の警部に対して『お前は小学校の勉強をしてきたのか』と叱ったら、それを苦にして自殺してしまった。さらにその部下を守れなかったということで直近の上司も自殺してしまった、という報道がありました。これは、高慢が常識の可能性を食い尽くした例ですね。

4. 都議会で女性議員が妊娠や出産に悩む女性への支援策について都側に質問していた際に、「自分が早く結婚したらいいじゃないか」、「産めないのか」といった野次を受けた事に端を発した騒動がありましたが、これもその例でしょうね。

5. Louisの本章(最大の罪)の主張についての参加者の感想

a. 高慢についての主張は鋭いですね。その本質が、競争的である、ということに納得しました。また、すべての争いの原因は高慢にあるということもその通りであると思いました。

b. 本章を読んで、ルイスの主張について今まで私が考えていたことを見直しました。私の身の回りにあるすべてのごたごたの原因は、すべて高慢であるということを明確に説明ができます。

c. 自分のことを考えると、本当に高慢であると思う。その意味で、自分がクリスチャンであることを本当に幸せである、と思います。教会の礼拝に出て、いつも自分について反省を迫られますので。

d. 最後のところにあるのですが、自分が高慢であるとは思わない、と考えているとすれば、それは高慢であるという記述は、グサリときました。

e. アメリカの12年前の流行歌に“There is always someone cooler than you”がありましたが、全く同じ意味です。誰かが威張ると、それに対して、あなたより優れている人が常にいるという警句です。

f. 高慢が競争的であるというのはその通りである、と思います。プライドの高い人ほど凄くコンプレックスを持っています。これはいつも人と比較しているからです。また、常に相手のことを考えて発言することは大切であると思いました。

g. 自信と高慢との違いは、自信は継続するけれども、高慢は直ぐ打ち砕かれてしまうように思います。淺田真央さんは、失敗しても自分に自信があるので、立ち直ることができたのだと思います。

h. 高慢と競争と関連しているということは、すごく学んだことです。

i. ルカによる福音書18:10-14の中で、イエスは、ファリサイ派の人をどうしてこんなに激しく批判しているのかについて十分理解できなかったけれども、ファリサイ派の高慢は重大の問題をはらんでいるからだということを教えられたように思います。(ルカ18:10-14「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」)


次回の英語読書会は、2014年9月7日午後2時―3時半です。Book3 の第9章「慈善(The Charity)」に入ります。英語が得意でなくてもどうぞご参加下さい。Mere Christianity の訳本を読んで参加する方々もいます。なお、8月は、お休みです。