2014年7月6日日曜日

2014年6月の英語読書会



20146月の英語読書会では、
MERE CHRISTIANITYBook3 7章「赦し」(Forgivenessを勉強しました。

1.  今回のテーマ、許しは貞節以上に評判の悪い徳目である。許しは「自分を愛するように隣人を愛しなさい」というキリスト教の教えの「隣人」には敵も含まれるので、敵を許しなさい、ということになるからである。
2.  許し自体は良いことだと誰もが言う-実際に許すべき対象が生じるまでのことであり、戦時下では、唾棄される徳目である。ユダヤ人やポーランド人がゲシュタポを許せるのか!          
3.  キリスト教において、許しは「我々の罪をお許し下さい。我々に罪をなす者を我々が許すように」と述べられるにとどまっている。確かに許さねば許されない。
4.  この許しについて、ゲシュタポから考えるのではなく、まず、身近な家族や同僚への許しを考えてみよう。次に、「自分を愛するが如く隣人を愛する」とはどういうことか考えよう。
5.  自分を愛するのは自分に良いところがあるからではない。よって、隣人を愛せよとは隣人に良いところを見つけそれゆえ好きになれという無理な注文ではない。自分を良いやつだと思うどころか逆に、とてもいやなやつだとわかっている時であり、私は自分の行為を忌むことができる。だから明らかに私は敵の行為を憎んでいいのだ。ただしキリスト教の教えは、罪を憎んで人を憎まずである。
6.  実は我々は、罪を憎んで人を憎まずということを自分に対しては容易に実践している。自分を愛するゆえに、自分の行為が許せないのだ。キリスト教では、我々は残酷を憎むべきだが、その残酷さを自分の中に見出すいやなものと同じ度合で憎むことを求めている。そして、そんな行為をしてしまったことを悲しみ、もしできるなら、いつかどこかで何らかの形で、矯正され人間性を取り戻すように願うことを求めている。
7.  例えば、残虐行為が過剰に報道され、その後真実が明らかになった時、ほっとするか、最初の報道内容に執着し、敵はやはり悪い奴だと考えたがるかが試金石である。後者の考えは我々を悪に導く。我々はどんどん物事を悪く見るようになり、神も友人も自分自身までも悪く見ることがやめられなくなり、ついに憎しみにとりつかれてしまう。
8.  次に、自分を愛することは自分を罰しなくてよいということではないと同様、敵を愛することは敵を罰しないということではない。私の考えでは、クリスチャンの判事が死刑を宣告したり、クリスチャンの兵士が敵を殺すのは正しい。’Thou shalt not kill’ を引き合いに出すのは適切ではない。ギリシャ語ではkill murder は意味合いが異なる。マタイ、マルコ、ルカ書を通じて、キリストは十戒の「汝殺すなかれ」では、murderを使った。旧約聖書にも同様の区別がある。洗礼者ヨハネは兵士に、キリストもローマの百人隊長に対して、いささかも軍隊を去るべきだとは言わなかった。大義を守る為の武装はキリスト教の偉大な見解の一つである。戦争は恐ろしいことだし、私は公正な暴力反対者を尊敬できるがしかし、彼は誤解されていると思う。戦わねばならないとしながら、憂鬱そうに、まるで恥じているかのように戦わなければという、暴力反対主義もどきの昨今の考えが私は理解できない。この考えは、兵役についている多くの素晴らしい若きクリスチャンから、当然持つべき、勇気につきものの陽気さや一生懸命さを奪っている。
9.  第一次大戦で私が、もし若いドイツ兵士と殺し合っても死後は、お互い敵意やわだかまりさえ持つとは想像できない。私たちは笑いながらそのことを話すと思う。
10. 敵の行為を咎め,罰し、殺す時、クリスチャンの倫理と一般の見解には大きな違いがある。クリスチャンは、人は永遠に生きると考える。ゆえに、本当に大事なのは、心の中にあるこの小さな傷や歪みが、生きていくうちに、人を神々しい人間にするかあるいは悪魔的な人間へ変えてしまうかの分かれ道だということなのである。我々は必要とあれば殺したり罰したりするが、憎んだり、それ自体を楽しんだりしてはならないのである。憎しみの感情こそ殺すべきなのである。とはいえすぐに憎しみの感情がなくなるというものではなく、我々は生涯、これと闘わねばならない。難しいことだが、不可能な試みではない。人を殺したり罰したりするとき、自分に望むように、彼自身は悪い人でなく、この世かあの世で正されることを望み、つまりその善性を願おうとしなければならないのである。聖書が意味する敵を愛するとはこのことである。敵を好きでなくとも、悪いものは悪いと言おうとも、その敵の善性を願うことである。
11. 人を愛するとは、愛すべきところがなくとも愛するということである.我々はただ自分だから愛するのである。神は我々がすべての個人を同じ理由で同じように愛するように意図している。それが神の愛し方だと考えればわかりやすいだろう.自己愛は、自分に良い魅力的な資質があると思うからでなく、ただ、自己というものだから愛するのである。実際、我々には神の愛に値するべきものは何もない。実は我々は憎むことが楽しいと思う生き物で、それをやめるのはビールやたばこをやめるように難しいのである。

12. 話し合いでは、

  ルイスは、軍人が戦って殺すということは、悪いとは言っていない。これは時代の反映かとも思いますが、第二世界大戦中のとき、ロンドンが爆撃にあっているときのBBC放送ですからね。
  良心的兵役拒否は、アメリカではアーミッシュやクエイカ―に対して認められていた。日本にも、良心的兵役拒否の事例がある。明石順三、弟子の村本一生が有名である。岩波新書に『兵役を拒否した日本人―灯台社の戦時下抵抗―』(稲垣真美著)がある。明石順三は、アメリカでエホバの証人の影響を受けて、日本で灯台社を設立した。その信仰に立脚して、軍部に立ち向かった。迫害の中で良心的兵役拒否を貫き、刑務所で終戦を迎える。明石順三等は、司法裁判所で裁きを受ける。その記録も残っている。その裁判の中で、明石は、私が今まで申し上げた真理は神の言葉です。絶対に間違いはありません。現在、私の後についてきている者は、4人しか残っていません。私ともに5人です。1億対5人の戦いです。1億が勝つか5人がいう神の言葉が勝つか、それは近い将来に立証される事でありましょう。それを私は確信します。」(同書169-170頁)と述べている。
  「第一次大戦で私が、もし若いドイツ兵士と殺し合っても死後は、お互い敵意やわだかまりさえ持つとは想像できない。私たちは笑いながらそのことを話すと思う。」とあるが、分かりづらいですね。個人的恨みはないからということですか。
  「戦場に掛ける橋」という映画だったと思いますが、戦場でイギリス人の若者と日本人の若者が突然現れて、銃を向けあいつつたじろぐ場面がありますね。戦争の問題を深刻に考えさせるところですね。
  死んでからも人間が問題を抱えているというのは、カソリック的な考え方である。プロテスタントはそのようには考えない。
  以前には、みんなクリスチャンにしなければ、救いはない、という考え方が強かったが、今は、クリスチャンではない人も救われているのだという考えの方が強いのではないか。
  「残虐行為が過剰に報道され、その後真実が明らかになった時、ほっとするか、最初の報道内容に執着し、敵はやはり悪い奴だと考えたがるかが試金石である。後者の考えは我々を悪に導く。我々はどんどん物事を悪く見るようになり、神も友人も自分自身までも悪く見ることがやめられなくなり、ついに憎しみにとりつかれてしまう。」とあるが、よく分からない。
  でも私の経験では、悪い方、悪い方に考える人が本当にいるのですよ。だから、私はよくわかりました。
  数年前にある宣教師の娘が殺されたことがあったが、その宣教師は殺した人の罪は憎むが、その人は許さなければならない、と新聞報道があった。しかし、一般の人には理解しづらいことですね。
  同じような話ですが、ある宣教師が発展途上の地で殺されたが、その妻は殺した人を許した。その結果多くの人がこの人のもとに集まり、入信したという。
  私たちは、「汝の敵を愛する」という言葉を聞くと、それ以上に恐くて入り込むことができないのに、ルイスは、それを真正面から取り上げて、解き明かすのは、凄いと思う。
などのコメントがあった。



次回の英語読書会は、2014年7月6日午後2時―3時半です。

Book3 の第8章「最大の罪(The Great Sin)」に入ります。英語が得意でなくてもどうぞご参加下さい。Mere Christianity の訳本を読んで参加する方々もいます。
なお、8月は、お休みにします。