2014年5月31日土曜日

2014年4・5月の英語読書会



2014年4月6日と5月4日の英語読書会では、MERE CHRISTIANITYBook 3第6章「キリスト教の結婚」(Christian Marriage)を勉強しました。

1.     キリスト教では、結婚は男と女が一体になるというキリストの言葉に基づいている。結婚は、いわば錠前と鍵、バイオリンの本体と弓のように一体になっていると考えている。
2.     キリスト教では、離婚は、生きた体を切断するようなものであると考えている。離婚は、人が互いに愛を感じない時、あるいは一方が他の誰かと恋に落ちた時の当事者の単なる再調整(Readjustment)であるという考え方には反対する。
3.     離婚は、貞潔の観点から考える前に、約束違反であるという正義(justice)の観点から問題にされる。結婚にあたって厳粛な約束を神の前および人々の前でするが、その約束は、夫婦が愛さなくなった時にもその夫婦を縛るものである。
4.     およそ約束というのは行為(Actions)についてであって、感情(Feeling)についてではない。誰もある感情を持ち続けるという約束はできない。愛している(to be in love)という状態と愛する(to love)とは異なるものである。結婚では、常に恋愛のドキドキを求めても、長続きしない。
5.     愛し合っているという状態がないのに、二人の人間を結びつける効用は一体何か。子供を守るということや妻を守るという観点から論じられる社会的理由があるが、ルイスは、もう一つの理由があると述べている。愛するということは、意思(will)によって維持される結合であり、習慣(habit)によって強化され、二人の当事者が共に神から受ける恵み(grace)によって強められるものである。この愛は、両者が好きでなくなった時にも互いに保有するものである。それは、私たちが、自分が好きでなくなった時にも自分を愛するのと同じである。結婚が長続きするのは、この愛に立脚するからである。このより静かな愛(quieter love)がその約束を守らせるのである。ルイスは興味深いたとえを使っている。少年が飛ぶことを最初に考えた時の感激は、その少年が空軍に入り、実際に飛行することを学ぶときまで続いてはいない。楽しい場所を最初に見たときの感激は、実際にその場所に住むときには消えている。そして、より静かな、永続的な関心にとって代わる。飛ぶことを覚え優れた飛行士になった人は、音楽の喜びを発見するかもしれないし、美しい場所に住みついた人は、そこで庭造りの面白さを発見するかもしれない。イエスが、1つのことが最初に死ななければ、そのままであると言ったことの一部はそのことを意味しているのではないかと思う。(ルイスは、ヨハネ福音書12:24の「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの身を結ぶ」を念頭に置いているものと思われる。)
6.     さらにルイスは次の二つのことを混同してはいけない、と述べている。一つは、結婚についてのキリスト教の概念である。もう一つは、クリスチャンはどの程度まで自己の結婚観を社会のほかの人びとに押し付けてよいかということである。ルイスの考えによると、教会は、イギリス人の大多数はクリスチャンではないということ、したがってクリスチャンの生き方を期待することはできないということを率直に認めるべきだというのである。二種類の結婚を区別すべきであるというのである。一つは、すべての市民に対して適用される国法により規制されるものであり、もう一つは、教会が自分たちの仲間に適用するものである。結婚といってもキリスト教的な意味で結婚するのかそうでないのかは重要である。
7.     最後にルイスは、キリスト教的結婚に関しては極めて評判の悪い教えがあることに触れる。それは、夫は、家の「頭」(head)であるという教えである。それに対しては、①なぜ平等ではないのか、②その頭は、夫なのか、という疑問が生ずる。夫婦の間にいさかいがなければこういう問題は生じないが、何か家庭で決めなければならないことがあるときには、どちらかが最終決定の権限を持たなければならない。だから、家庭には、まず「頭」は必要である。そのときに、それがなぜその「頭」が夫なのか、ということである。これに対して、ルイスは、面白いことを言っている。あなたが結婚した妻の場合に、あなたの家の犬がお隣の子供を傷つけたとする、あるいはあなたの家の子供が隣の家の犬を傷つけたとする。そのときに、あなたは、お隣の夫である人にこの話を持ち出すか、それともお隣の妻である人に持ち出すか。女性は子供や夫のためには徹底的に外部と争うが、男性は、家庭でも外部との関係を考慮する。したがって、お隣の妻である女性に話をもちかければ、争いは深刻になるだろうから、あなたは隣の家の男性にこの話を持ちかけるに違いない。こういう点を考えると、最終決定者は、夫の方がよいというのである。この論理にはユーモアを感じる。ルイスも、女性が夫や子供のためには相手がだれであろうとも徹底的に戦うということを人生のどこかで手痛く経験したに違いない。
8.     話し合いでは、
    聖書では、はっきりと夫は妻の頭であると書いていますね。「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」(エフェソの信徒への手紙5:22-23
    聖書もその時代の慣行や習俗の影響を受けて書かれている。しかし、イエスさまは、男と女とを区別していない。そのことを考えるべきだ。
    「恋している」、「愛している」ということと「愛する」ということを区別しているのは、言われてなるほどと思うところである。
    「教会は、イギリス人の大多数はクリスチャンではないということ、したがってクリスチャンの生き方を期待することはできないということを率直に認めるべきだ」という記述があるが、驚きだ。日本人は、イギリス人のほとんどは、クリスチャンであると考えるが、実際は「クリスチャンではない」という叙述にはびっくりする。
    イギリスで生活している自分の家族の経験でも、イギリス人のほとんどは、日曜日に教会に行かない。クリスマスなどの特別の時だけである。
    「家庭には、まず『頭』は必要である。そのときに、それがなぜ頭が夫なのか」に関連して、奥さんも、お隣ともめ事ができると、お隣の奥さんではなくて、ご主人の方に相談するというのは、とても面白い。日本でもイギリスと同じかな。
などのコメントがあった。

次回の英語読書会は、2014年6月1日午後2時―3時半です。Book3 の第7章「許し」(Forgiveness)に入ります。英語が得意でなくてもどうぞご参加下さい。Mere Christianity の訳本「キリスト教の精髄」を読んで参加する方々もいます。