2014年2月12日水曜日

英語読書会 MERE CHRISTIANITY Book 3 第4章「道徳と精神分析」(Morality and Psychoanalysis)




201415日の英語読書会は、MERE CHRISTIANITYBook 34章「道徳と精神分析」(Morality and Psychoanalysis)を勉強しました。

当日の担当者の井上さんが作成した要約をできるだけ活用してご紹介します。

1. 前に述べたようにクリスチャン社会になるには、多くの人がクリスチャンにならなければ達成できない。将来いつかそのような日が来るであろうが、それまで手をこまねいていてよいというわけではなく、我々は次の2つのことを同時にかつ直ちに始めるべきである。

(1)現代社会において具体的に “Do as you would be done” とは、何をすれば良いかを明らかにすること。
(2)それが明らかになったら、我々自身がそれを実行できるような人になること。
そこでまず、クリスチャンが考える「良い人間」とは何か、つまりクリスチャンが考える人間機械(Human Machine)の仕様について考える。

2. この章ではその議論に入る前に2つの一般的な事項について考える。
1のポイントは、クリスチャンの倫理は人間機械を正常に働かせることであるが、その手法は精神分析学の手法と非常に良く似ているので、その手法を使って説明してみよう。
人が倫理的選択をするとき、2つのことが関与している。
(1)一つは選択するという行為。
(2)もう一つはさまざまな感情、衝動であって、その人に精神的に備えられているものであり、その人の精神活動の素材。
その素材には、いわゆる正常(normal)と呼んでよい感情と、また歪曲された異常な(abnormal)感情とがある。例えば、危険な事態があるときそれを恐れるのは前者であり、猫や蜘蛛を異常に恐れるのは後者である。精神分析の役割は、素材の中の異常な感情を取り去ること、つまり人が行動の選択をするときにより良い素材を与えることである。

3. 例えばここにこれから戦場に行く3人の兵士がいるとする。
1人の人は、多くの人が持っている危険に対する普通の自然な恐れを抱いている。彼は倫理的努力でそれを抑制し勇敢な男となる。
他の2人は潜在意識的に極度の不合理な恐れがあり、いかに倫理的努力をしてもどうしようもない状況にあると想定しよう。精神分析者が来てこの二人を治療し、第1の男と同じ状態にしたとしよう。
そうなるとこの2人に精神分析上の問題はなくなるが、道徳的な問題が起こるのである。治癒した2人の人は全く別の路線をとるのである。一人は嫌なことは全部なくなったから、自分が願っていたいこと、すなわち国のために働くことができる、と考えるようになる。もう一人の人は、戦火の中でも冷静になれたけれども、自分は偉い人の後ろにいてもっと怖くないことをするようにしたい、戦場にはほかの仲間を行かせ、自分の身の安全を図りたい、と考える。この違いは、純粋に道徳的な問題であって、精神分析ではどうしようもないことである。このことに見られるように、自由な選択を行うときこそ、道徳が問題になるのである。

4. 精神の異常は罪ではなく病気である。それは懺悔する必要はなく、治療されるべきものである。これは非常に重要なことである。人は互いに外面的な行動で人を判断するが、神はその人の道徳的決断で判断する。
たとえば猫恐怖症の神経症の人が、ある理由で猫を拾い上げるというようなことがあれば、神様の目からは、健康な人が名誉勲章(Victoria Cross)を獲得するような勇敢な行動を示したときよりももっと勇気があるとされるのである。また、少年時代から邪道に陥り、残忍な行為は正しいものだと教えられてきた人間が、その残忍さを抑え、あるいは小さな親切を行ったとすれば、仲間からせせら笑われるかもしれないが、神様の目からは、私たちが友のために命を捨てる以上のことをしているのである。

5. こんな言い方もできよう。良い人だと見える人でも、良い遺伝的特質や良い育ちをほとんど活用しない人は、極悪非道とみなされるような人よりももっと悪いのである。もしもわたくしたちが心理的な特質、悪い育ち、ナチスの親衛隊のような権力などを持っていたとしたら、私たちはどんなひどい行動をとるかわからないのである。私たち人間は、私たちが持っている素材を用いた意思決定の結果で判断するが、神は素材で判断せず、その素材を前提としてどうしたのかを判断する。大部分の精神的に備わっているものはおそらくその肉体によって形作られるのであろう。人の肉体が死ぬとき、それらは全て取り去られて、その人の真の姿が現れる。

6. 2のポイントは、一般にクリスチャンの道徳は一種の契約だと思われている。
 神は言う「もしあなたがいろいろなルールを守るなら私はそれに報いよう、そうでなければ報いはない。」(“Now, if you will obey me and keep my covenant, you will be my own people.” Exodus 19-5
しかし、これはベストの見方ではないと思う。人の心の中にはいろいろな素材の詰まったデータベース(central part of you)のようなものがあり、人は選択をするたびにそこに戻る。しかし、その選択はいつも同じではなく以前とは少しずつ違ったものを選ぶ。そして何度も選択を繰り返しているうちにすこしずつ神の国に近づいたり地獄に近づいたりする。

7. クリスチャン作家について私が不思議に思っていたことは、あるときは非常に厳しく、あるときはとても自由気ままに見えることであった。例えば、単に心の中で思う罪を非常に重要視する一方、殺人や詐欺などに関しては懺悔するだけで許されるといっていることである。
しかし今では結局それは正しいと思うようになった。彼らはその行為が心の中に残すしるし(Mark)をいつも考えているからである。それは外部からは誰の目にも見えないものであるが、我々一人ひとりが永遠に耐え、また享受するものである。ある人の怒りはその人が置かれている地位によって、何千人の血を流すことになるでしょうし、ある人はどんなに怒り狂おうが、ただ笑い飛ばされるだけでしょう。しかし、その心に刻まれたしるし(Mark)はどちらも同じである。悔い改めることがなければ、次に激怒に襲われたときそこから抜け出すことはさらに難しくなり、怒りはますますひどいものになるでしょう。どちらの場合でも、彼らが真剣に神に立ち返れば、人の中心部にあるねじれは正すことができる。もしも神に立ち返らないならば、どちらも結局滅びるでしょう。外見から見る大小は、問題ではないのである。

8. 最後にひとつ。前にも述べたように、正しい方向は平安(Peace)に導くだけでなく、知識(Knowledge)にも導く。しかし、人は良い状態になればなるほど自分の中にある悪がはっきり見えてくる。悪に走るときは、自分の悪さがますます見えにくくなることである。中くらいの悪人は、自分が善人でないことがまだ分かる。まったくの悪人は、自分が正しいと思っている。これは別に不思議なことではなくて、常識なのである。目が覚めているときは、眠りのことが分かるが、眠っているときは、眠りのことはわからない。しらふの時は酩酊状況を理解することができるが、酔っぱらうとわからなくなる。良い人間は善と悪とを理解できるが、悪い人間はどちらも知りえないのである。

話し合いでは次のようなことが意見交換された。
      精神の「異常」のことが、精神分析の対象であると書いてあるが、実は私は猫がこわい。遠くから見るのは良いけれど、手に触れることができない。
      私は蜘蛛が怖い。家内は全然怖がらないので、冷やかされる。
      「少年時代から邪道に陥り、残忍な行為は正しいものだと教えられてきた人間が、その残忍さを抑え、あるいは小さな親切を行ったとすれば、仲間からせせら笑われるかもしれないが、神様の目からは、私たちが友のために命を捨てる以上のことをしているのである。」とあるが、ずいぶん大げさだと思うなぁ。
      「神の目から」ですからね。
      キリスト教倫理学で言う「倫理」とここでいう「倫理」「道徳」とは違うような気がする。
      ルイスが描く死んだあとのイメージとして、最後に悪いところがそのまま露骨に出てくるという考え方にはあまりついていけないな。ちょっと気持ちが悪い。
      ルイスの「ナルニヤ物語」では、死んだあとは、今まで戦争をしていた者も、死んだあとは、一緒にお茶を飲んでいるというように描かれている。
      ルイスには、カトリックの煉獄の思想が出ているのでは。だから、「良くなりなさい」ということが強く言われているように思う。
      行為が心の中に残すしるし(Mark)」というところがよく分からない。
      人間というのはいろいろ選択を迫られるときがあって、その選択を行うたびに、天国的なものあるいは地獄的なものに自己を変えていく。その積み重ねがその人の全生涯になる。その場合の選択という行為がその人の中心部分にしるし(Mark)を残していく。そのMarkが重要であると言っているのではないか、と思う。
      本章は今まで学んだところで、一番難しいような気がする。分かりやすく説明をしてくださった担当者のご努力に感謝します。(拍手)
などの意見があった。

次回の英語読書会は、201432日午後2―3時半です。
Book3 の第5章「性道徳」(Sexual Morality)に入ります。
英語が得意でなくてもどうぞご参加下さい。
Mere Christianity の訳本を読んで参加する方々もいます。