2013年12月21日土曜日

2013年12月の英語読書会




1.      人と人とがどう生きるべきかの社会道徳については、第1にキリスト教は何も新しいことは教えてはいないということである。新約聖書の中にある黄金律(あなたは自分にして欲しいと思うことをしなさい。マタイ福音書7:2)は、誰もが正しいと知っていることを要約したものである。

2.      第2に、キリスト教はこの黄金律をこの世で実践する具体的なプログラムは用意していないということである。それは、すべての人がいかなる時代にもいえる一般原理を述べているだけであって、ある時代のある場所で適用されるべき具体的な計画については一切論じていないのである。飢えている人に食べさせよとは言っても何か特別な料理法は述べていない。

3.      人々はよく「教会は我々を指導すべきだ」という。もしもすべての経済専門家、政治家がクリスチャンであれば黄金律の実践に向けられるべきであろう。そうすれば社会問題の迅速な解決に役立つであろう。しかし、その主張が、聖職者に具体的な解決策の作成を求めるものであるならば、愚かなことである。聖職者は信仰の世界に関して専門教育を受けた人々であって任務が異なるのである。そのような具体的解決策の実践は、一般信徒(laymen)の仕事である。

4.      キリスト教では、すべての人は働かなければならない、そして、すべての仕事は良きものを生み出さなければならない、と考える。そこではくだらない嗜好品やそれを買わせようとするような広告は存在しない。その意味でキリスト教社会は、今で言う左翼(Leftist)である。他方、キリスト教は、信徒は聖職者に、子供は親に、妻は夫に(これが大変評判が悪い)服従obedience)を求める。第3にキリスト教社会は陽気な社会でなければならない。歌と喜びに溢れていて、心配や不安は誤ったものと見なす。さらに礼儀正しさが求められる。それは、キリスト教の徳の一つである。
 もしもこんな社会が存在しているとして、あなたがそこを訪ねたら、奇妙な印象を持つであろう。ある意味で進歩的で進んだ社会であるが、家庭生活や生活様式は古臭く、恐らく儀式的であり、貴族的である。私たちはその一部を好むかも知れないが、全体としては好きになる人はあまりいないであろう。もしもキリスト教が人間のための計画全体を描くとすれば、そんな社会になるのである。

5.      私たちはその全体計画からそれぞれ違った仕方で、各々が元のプランを修正して自分の実行計画を作成しているのである。それだから、キリスト教のために戦うと言ってクリスチャン同士が全く反対のことをするのである。

6.      反対のことをしているという観点からいうと、もう一つのことがある。古代ギリシャ人や旧約聖書のユダヤ人や中世の偉大なキリスト教の教師は、利子をつけてお金を貸すことを認めない。今投資と呼ぶこのシステムに現代経済社会が立脚しているのであるが、これを本来認めないのである。いろいろな理屈をつけて、投資を正当化しようとするが、偉大な三大文明(古代ギリシャ文明、古代ユダヤ教、中世のキリスト教)は、現在私たちの社会が立脚するこのシステムをかつて否定したことに触れなければ不正直になる。

7.      貧しい人に対して与えること、すなわち慈善Charity)は、キリスト教道徳の必須の部分である。貧しい人びとがいない社会を目指すべきであるという考え方があり、それ正しいと思うが、その結果誰かが一時にせよ、慈善をやめてしまうこととなるならば、その人はキリスト教道徳から離れてしまうこととなるのである。ただどれだけの慈善を行うべきかという目安はないと私は考える。楽しみや贅沢や娯楽に使うお金が、一般の人と同じ程度であるとすれば、当該クリスチャンの慈善の支出は多分少なすぎるであろう。

8.      以上がルイスの主張であるが、ルイスは本章の最後に重要なことを述べて締めくくっている。それは、私たちがキリスト教社会の道徳をいくら論じても、私たちが真にキリスト者にならなければ、あまり意味がない。真に神を愛することがない限り黄金律も実践することはできないそして神を愛するためには神に従うようにならなければならない。本当に大切なことは、遠回りすることが必要なのである。すなわち、私たちはより内奥に進まなければならないのである。一番遠い回り道が家に帰る最も近い道である。

9.      話し合いでは次のようなことが意見交換された。
    「働かざる者は食うべからず」ということを、イエスさまは言っていないのではないか。イエスさまが言っているのは、それぞれのタレントを生かすことが大切であるということである。
    自分が楽して人に頼るのはいけないとエフェソの信徒への手紙で述べている。「労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」(エフェソ4:28)また、「わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。」(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4:11)とあります。
    ルイスは「busy body」という言葉を使って、おせっかいはいけないとも言っていますね。ペトロの手紙の中に「他人に干渉するものとして苦しみを受けないようにしなさい」(4:15)、ということも書いてあります。ルイスは本章では聖書の言葉を意識して用いているように思う。
    ルイスは英国国教会の人なので、カトリックの影響があるのではないか。パウロをはじめ聖書の記者はそれぞれ時代の影響を受けている。だから、イエスが何を説かれようとしたかを知ることが重要であると思う。
    「どちらもキリスト教のために戦っていると言いながら、全く反対のことをしている」とあるが、具体的にはどのような事例を言っているのか。
    沢山ありますね。戦争をするかどうか、人口中絶行うべきかどうか、同性愛を認めるかどうか、聖職者が結婚をすることがよいかどうか、など、それぞれが聖書の解釈から説き起こしていますね。特にアメリカ政治には違った意見が述べられることが多い。プロテスタントとカトリックの考えの違い、プロテスタント各派の教義の違いもみなそれぞれの聖書解釈に立脚しています。
    ルイスは、慈善(charity)ということを力説していますが、その言葉自体に批判的な人がいます。
などの意見があった。

10.  次回の英語読書会は、201415日午後2―3時半です。
  Book 34章「道徳と精神分析」(Morality and Psychoanalysis)に入ります。
  英語が得意でなくてもどうぞご参加下さい。
  Mere Christianity の訳本を読んで参加する方々もいます。