2013年10月2日水曜日

2013年9月の英語読書会




1.      20139月の英語読書会では、Book2の最終章である第5章「実践的な結論」(The Practical Conclusion という箇所を学んだ。今回の担当者である大江さんが原文の段落ごとに、次のような要約をしてくださったので紹介します。

             クリスチャンはこう信じている。私たちがキリストのへりくだりと苦難にあずかることによりキリストに始まった新しい種類の生命が私たちの中にも注がれるのだと。

             それはどのようにして行われるのか。
このキリストにある新しい生命は私たちがこの世で生を受けたプロセスと同じく、神が私たちになんの相談もなしに発明されたプロセスによって与えられる。

③  キリストの生命を私たちに伝えてくれるものが三つある。洗礼と信仰、そして呼び方はいくつかあるが、聖餐式である。

             これらの三つがなぜ新しい生命を伝えてくれるのか、その理由は私(ルイス)にはわからないが、イエスが弟子たちにそのように教えられたという事実、つまり、イエスの権威(authority)によってそう信じるのである。

⑤  洗礼、信仰、聖餐式の三つが与えられていても、わたしたちが親から受け継いだ自然の命を維持する努力をしなければならないのと同じように、キリストの生命もそれを養い、保つ努力をしなければならない。生きている身体は傷つくことがあってもある程度はその傷をいやすことができる。それと同じようにクリスチャンは過ちを犯す存在ではあってもつまずくたびに悔い改めて再び歩き始めることができる。キリストの生命が内にあるからである。

⑥  このためクリスチャンは善であろうと努力しているほかの人びととは違う立場にいる。クリスチャンは自分が行っている善は自分の内にあるキリストの生命に発していると考える。 私たちが善を行うから神が私たちを愛してくださるのではなく、神が私たちを愛して私たちに善をなさしめているのだ。

⑦  クリスチャンが「我々はキリストにある」とか「キリストが我々のうちにある」というとき、それはどのような意味か。それはキリストが実際に彼らを通して働いているということであり、クリスチャンの群れはキリストが働く身体的な器官つまりキリストの指、筋肉、細胞なのだということである。このことはキリストの命は信仰といった純粋に精神的な行為によってだけではなく、洗礼や聖餐式のような身体的行為によって広がっていくということを説明している。神以上に霊的にはなれない私たちに神はパンやぶどう酒といった物質的なものを用いて私たちに新しい命を注ぎこまれる。

⑧  この新しい生命がクリスチャンだけに限られているのは不公平ではないかという疑問があるが、この点について神は私たちに示されてこなかったというだけである。外にいる人びとを助けることができるのはキリストのみである。クリスチャンはキリストの体であり、その体を通してキリストが働かれるのであるから、私たちが外にいる人びとを助けたいと願うのであれば、私たち自身が私たちの小さな細胞をキリストの体につけ加えなければならない。

⑨  もう一つの反論はキリストはなぜ悪魔に占領されたこの世界に姿を変えて上陸し、ひそかに悪魔をやっつけるために秘密結社のようなものを作られたのか、というものである。クリスチャンたちはその時はわからないが、神は必ず強力な力をもって上陸してこられると考えている。神がその時を遅らせているのは、私たちが自由な意思で神の側に参加する機会を与えるため、そして神の勝利が決定する前に神の側に立とうと決心する時間を与えようとされているからである。戦いが終わってからどちらにつくか選ぶのでは遅いし意味がない。神は待っておられる。今こそ正しい側につくことを決心するときである。

2.      話し合いでは次のようなことが意見交換された。
    キリストの生命を私たちに伝えてくれるものが、洗礼、信仰および聖餐式とあるが、ルイスは、信仰は、精神的な(mental)もの、洗礼と聖餐式は、物質的(material)なものと言っている。信仰は目に見えないもの、後者の二つは、目に見えるものという説明もある。

    日本では、無教会内村鑑三、矢内原忠雄などは、儀式的なものを認めていない。ルイスの説明でも、メソジスト(Methodist)はそのようなとらえ方をしていない、という。自分は教会員であるが、聖餐式を聖書に書いてあること以上に、ものものしくとらえることに違和感がある。日本では、大切なことを「血肉にする」という言葉があるが、イエスが言われたこともまさにそういうことなのではないか。イエスが日本に生まれたとしたら、パンと葡萄酒の代わりに、ご飯とみそ汁にしたのではないか、とさえ思う。司祭が葡萄酒を誤ってこぼして失せ果てるほど顔色を失ったということを聞いたことがあるが、自分にはやや滑稽にも思える。

    一方、聖餐式につていて、キリスト教国のヨーロッパ人のとらえ方を考えさせられたことがある。サマセット・モームの小説に「Of Human Bondage」という傑作があるが、その中で、主人公の叔父さんにあたる牧師が出てくる。金銭にも細かい人で、主人公はあまり好きではない。その叔父さんが重篤になり、最後に、聖餐式を受けるところが描かれる。そのあと、叔父さんの様子が克明に描かれるが、叔父は心の底から安堵し、安らかに最後を迎える。モームはその描写を通して、聖餐式がその叔父にとってどのような意味を持つものかを語る。モームはキリスト教を信じていなかったということも言われるが、大変興味深いところである。そのような観点から考えると、ルイスの指摘は、意味があるのかなとも思う。

    信じていれば洗礼はいらない、という考え方があるが、自分の経験では、洗礼は力強さがある。迷っている人がいれば、参考にしてほしい。

    本郷教会の会員であった自分の友人が語ってくれたことであるが、「人間は弱いのでやはり人々の前で、『信じます』ということは、大切なことである」というのである。自分も同感である。

    ルイスがニューヨークに行ったことがないというのは驚きですね。

    私たちが、あることを真実と認めるのは、自分たちが信頼できると思う人が語ってくれたからである。これが権威によって(on authority)信じることの意味であると、ルイスは説明している。確かに科学者が語ることを受け入れるのは、科学者は信頼できると思うからである。ルイスのこれまでの説明の中で出てきたことであるが、青い服を着た人が袋の中からものを取り出して配っているのを見て、何を配っているのかを判断するときに、「それは手紙だ」という。何故そういうのか。それは自分に配られたものが手紙だったからである。この場合、自分自身は信頼できる(trustworthy)と考えるからである。でも、自分には手紙だったけれども、他の人には金塊であったかもしれないのである。しかし、そうは考えずに、手紙だと信じる。これは、信仰のプロセスの核心を語っているところでもある。

    クリスチャンの群れはキリストが働く身体的な器官つまりキリストの指、筋肉、細胞なのだということである、という説明は、大変学ぶところである。

    コリントの信徒への第一の手紙12章の中に、信徒の群れはキリストの体であり、それぞれの信者は手であり、足であり、目であるという説明がある。

    クリスチャンになるかならないかは、自分が決めることではなくて、神がお決めになるということかな、という感じがした。

    しかし、受洗には、受洗者の意見が矢張りあるのではないか。100%の中の1%かもしれないが。

    本章では、ルイスは急速度にキリスト教の中に入り込んできた印象がある。
などの意見があった。

3.   次回の英語読書会は、2013106日午後2―3時半です。
  Book 3に入ります。英語が得意でなくてもどうぞご参加下さい。
  Mere Christianity の訳本を読んで参加する方々もいます。