2013年10月11日金曜日

読書会20130919「西行花伝」(1)


読書会   西行花伝(序の帖―五の帖)

花伝というのは世阿弥の書いた能の聖典といわれる「風姿花伝」を想起させます。
森羅万象を花と観る(詠む)西行の心を至芸の奥義と見て名付けたのでしょうか。

西行が生きた時代は「変転きわまりない狂乱の連続であった。」
冒頭、著者は藤原秋実にこう語らせております。

序の帖において具体的な事件を通して「変転きわまりない」時代の背景が語られます。
政治体制においては律令制度が荘園によって衰弱し保元平冶の乱により藤原氏による摂関政治から武士の台頭となり源平の戦いを経て鎌倉幕府に実権が移行する時代でした。
秋実が語る甲斐の国の騒乱や佐藤家の所領が徳大寺家に寄進された背景が語られています。

当時の状況を表した「二条河原の落書」には
「此頃都ニハヤル物、夜討 強盗 ニセ綸旨・・・本領ハナルル訴訟人、文書入リタル細葛」と土地にからむトラブルが多くあったことが伺えます。

朝廷は白河、鳥羽、後白河と三代に亘る院政が続き複雑な権力闘争の温床でした。
白河法皇は「朕の意のままにならぬものは加茂川の水、山法師、サイの目である。」とした権力者でその想い者である待賢門院たま子(女院)が大きな役割を果たしています。
西行がたま子との恋を詠んだ歌とされているもの。
「思いきや 富士の高嶺にひと夜ねて 雲の上なる月を見んとは」
「知らざりき 雲ゐのよそに見し月の かげを袂に宿すべしとは」

たま子はその後、鳥羽院の中宮になりますが白河の子、崇徳と鳥羽の子、後白河を生みます。 鳥羽は崇徳を「叔父子」(子であり、叔父である)と呼んでいたそうです。

鳥羽亡き後、崇徳と後白河が戦った保元の乱の芽は白河が植え付けたようです。

新進気鋭のエリート、院の北面の武士であった佐藤義清が平清盛と同じ職場にいたことは 出家をしても都近くに住んだ西行の情報源のひとつになっていたのかもしれません。

その清盛も祇園の女御を通して白河の影がちらつくのですが・・。
「世の中を 捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり。」
「捨てたれど 隠れて住まぬ人になれば なお世にあるに似たるなりけり」

以下に本書に登場する人物と時代背景の参考に年表と保元の乱当事者たちと皇室の系譜をまとめてみました。

<年表>
1072 白河帝即位
1086 白河院政始まり
1118 西行誕生
1123 鳥羽帝、崇徳帝に譲位
1129 鳥羽院政始まり、白河法皇没
1137 西行北面武士として安楽寿院行幸に従う。
1140 西行出家
1142 待賢門院出家 頼長へ写経勧進
1145 待賢門院没
1156 後白河帝即位(鳥羽法皇没)保元の乱起こる
1158 後白河院政始まり
1159 平治の乱起こる
1164 崇徳院没
1180 頼朝挙兵
1185 平家滅亡 安徳帝没(後白河帝後、二条、六条、高倉、と続く)
1186 西行頼朝と会う
1189 平泉藤原氏滅亡
1190 西行没 
1192 後白河院没 頼朝征夷大将軍

(保元の乱 系譜)
 勝者  後白河  忠通  清盛  義朝

 敗者  崇徳   頼長  忠正  為義
    (流刑) (傷死)(死刑) (死刑)
                  為朝
                 (流刑)