2013年8月17日土曜日

2013年7月の英語読書会




1.      20137月の英語読書会では、Book2の第4章「完全な悔悛者」(The Perfect Penitent という箇所を学んだ。
2.      キリスト教信仰の中心は、キリストの死は私たちと神との関係を正し、私たちを新しく出発をさせることである。しかし、それはどのようにしてできたのか。この点に関して、ルイスは、悔い改めの考え方と贖罪の考え方を展開している。そしてキリストであり、神の受肉であるイエスのみが完全な悔悛者であるというのである。
3.      ルイスによれば、キリスト教の公式(formula)は、イエスは私たちのために殺され、彼の死は私たちの罪を清め、彼の死を通して死そのものを克服したというものである。
4.      イエスが自由意志で罰を受けることを受け入れたがゆえに、私たちは罪を免除された。うわべだけを考えると、この考えは愚かである。神が私たちの罪を許す意思があるならば、なぜ直接実行しなかったのか。無実の人を殺す意味はなかったのではないか。ルイスは、刑事罰のような意味では全く意味がなかったという。しかし、借財という観点から考えると、友人が負債を引き受けるということはありうる。
5.      堕落した人間は、ただ不完全であるということではなく、改善を必要とするのである。人間は悪魔に占領された領土にいる反乱者である。唯一の穴から抜け出る方法は、降伏すること、悔い改めることである。悔い改めるとは、自己の慢心や我儘な人間性を捨て去る(unlearnことである。これが容易なことではないのである。
6.      ルイスはこのように主張している。人間は悔い改めを必要としている。悪人は悔い改めを必要としている。しかし、善人が完全に悔い改めることができる。人間は悪人であればあるほど悔い改めることが必要であるが、悔い改めることがよりできなくなる。それを完全にできるのは完全な人間である。しかし、その人間はそれを必要とはしていない。
7.      この悔い改めは、事実上神の許に戻るということはどのようなことかを示している。悔い改めは、神が要求しているというよりはむしろ私たちが真の自己に戻るためにしなければならないことである。しかし、私たちは悪くなってしまったがゆえに、私たちがしなければならないことをすることができない。そこで、神が人間となったことの本当の意味を知ることができる。苦しみと死を知っている人間性と神性とを一人の人間の中に併せ持つ存在こそが人間を助け、苦しみを担い、死すことができるのである。その人間はそれをなすことができる。何故ならば、彼は神だからである。
8.      私たちは自己に死ななければならない。しかし、神が私たちのために死ぬならば、そうすることができる。これが、キリスト教の贖罪atonement)の教えである。ルイスはこのことを説きながら、これは、事柄を理解するための図式であって事柄そのものではない、と述べている。この図式が役に立たなければ、捨ててください、というのである。
9.      話し合いでは次のようなことが意見交換された。
    ルイスは、「イエスが自由意志で罰を受けることを受け入れたがゆえに、私たちは罪を免除された。うわべだけを考えると、この考えは愚かである。神が私たちの罪を許す意思があるならば、なぜ直接実行しなかったのか。」という考え方があることを紹介しているが、これは新井白石が『西洋紀聞』のなかで、ヨハン・シドチが説明するキリスト教に対する反論の内容である。大変興味深い。
    イエスが「罪を洗い流す」(wash away)という考え方が紹介されているが、プロテスタントでは、その考え方をとらないのではないか。プロテスタントでは、罪の体にイエスをまとうという考え方をもっている。
    神は義であるから、悪をしたものを神は許さない。したがって、悪を犯したものは、殺されなけれならない、という考え方が基本にある。
    ただ、その考え方は、ユダヤ人はよく分かっていたと思うが、日本人にはわかりづらいのではないか。
    「完全な人間こそが完全な悔い改めをすることができる」という考え方は少し分かりにくい。親鸞の「善人なおもて往生する。況や悪人をや」という考え方の方がわかり易い気がする。
    本書を読んで、キリスト教のエッセンスをこのように叙述することができるのは素晴らしいと思う。
などの意見があった。
10.  次回の英語読書会は、201391日午後2―3時半です。英語が得意でなくてもどうぞご参加下さい。Mere Christianity の訳本を読んで参加する方々もいます。