2013年1月24日木曜日

読書会20130117「人間の往生」



「人間の往生」大井玄 著 新潮新書
 
 
論語に「季路、敢て死を問う。子曰く、未だ生を知らず いずくんぞ死を知らん。」というのがあります。
作者は「生と死は裏表一体、死を知る事は生を知ることです、そして宇宙(自然)を知ることです」とでも言いそうです。
 
昨年9月、本郷教会でルーテル学院大学の石居基夫先生の講演会がありました。
「人生をどう終わりたいですか・・・。」という命題について興味深いお話がありました。
  
イントロの部分で「伝統的な死の受容システムの崩壊」が指摘されました。
 
心休まる自宅のベットで何日か過ごした上で、家族一人一人に感謝をし、別れを告げ、枯れ木が倒れるような、眠るような、往生で自然(土)に帰っていく。
 
私は子どもの頃、山岡鉄舟が臨終に際し死の床から起き上がってきちんと座り周りの人達に一人ずつ目礼をしたうえで逝った、という話を読んで憧憬の念に包まれたものでした。
 
作者も日常的な死が病院の中に隠ぺいされ、当人の意思は無視され、無駄な延命処置の末、家族の十分な看取りもなく処理されることが死への恐怖と無知を助長するといいます。
 
最近は新聞雑誌でもクオリティーオブライフとかクオリティーオブデスということが議論されるようになり一昔前のアメリカ発の生命倫理にも見直しの風潮があるようです。
 
安楽死を問うた高瀬舟の鴎外も機嫌を直しているかもしれません。

死が必至の日常事である以上、私達はそれなりの準備をした方がいいのでしょう。

 残された者が困らないような身辺整理をしておくこと。
 不要な延命措置を断っておくこと。(尊厳死のおねがい)
 できれば死というものの自分なりの理解をしておくこと。(作者は「唯識」など仏教的教えを助けとしています)
 
そうして私達の死がそれを看た人びとに喜びや感動を残し、勇気を与えることが出来れば望外である、と思います。
 
勿論あまり家族に迷惑をかけないように死ぬことが出来ればいいのですが、或る程度の迷惑をかけるのはやむを得ないと割り切るしかありません。
 
介護施設の利用も勉強しておくべきでしょうが、現在の家族や住宅事情を考えると施設で死を迎えることも良しとすべきでしょう。
 
以上は老人(=わたし、―いくつから老人というか、個人差があるようですが)の死についての考察です。

本書の中でいくつか耳慣れない表現や興味深い表現があります。

チンパンジーの母親は子供が産めなくなったら寿命が切れる。
(生きるとはそういうことであったのか!)
人間の赤ちゃんは寝かせてもおとなしくしているので母親は時間の余裕が出来る。
(狩猟採集から農耕牧畜になり人類は余暇を得て富を蓄積し、文明を発展させた。)

唯識とは仏教用語、世界にある物体は各人の意識によってのみその存在が確認される。
各人の意識は各々異なるので受け止め方はそれぞれ異なる。
意識の中で最深層にあるものをアラヤ識といい太古から個人の中に蓄えられている。
一瞬の認識の内に生命の誕生以来数十億年にわたり蓄積された認識が発揮される。
パスカルは「極小は極大に通じる」と言ったが、同じように「一瞬は無限に通じる」。
日本の古歌に「蟻の子の 涙の中の中島で あさりを取りて 千々に砕かん」とある。
物も人も意識によってしか確認できない存在だから「空」である。
 
デカルトの「吾思う故に吾あり」というのは17世紀の発見だが唯識はインドで4世紀(?)から仏教哲学のひとつとして生れており南都六宗の法相宗はこれである。
 
自己の存在理由(価値)に固執する人間は「居場所」を求めかって自分の存在が輝いていた「意味の網」に執着する、良寛や西行のようにかっての網を棄てた人も新たな自分の網を紡ぐ。「迷惑をかけている」という思いは居場所の喪失である。
 
死は円を描き超越的存在へ繋がっていく(輪廻転生)、それは子孫であり、先祖であり、国であり、宇宙であり、神仏である。  ・・・人はこの繋がりで生きてもきた。
 
おおいなるものと共にいるという感覚があるなら死ぬのはどこであろうと、そこが宇宙の中心である 。
 
超越的存在も認識する(信じる)から存在するので、存在するから信じるのではない。
モノの上に君臨する人間ではなく自然の中に共生する人間としての認識。
(聖書の記述内容も時代と共に変貌する)
 
これらが作者の死の受容の前提になっているようです。

私達は自分の死についてどう考えているのでしょうか。
「ぽっくりと 逝くが上手な仏かな」一茶

by murao