2012年4月26日木曜日

読書会20120419「ローマの歴史」(第3回:最終回)


「ローマはなぜ滅んだのか」、古来たくさんの人がこのことを論じてまいりました。
外敵の侵攻によるとか、キリスト教の興隆による、あるいは高福祉政策の結果だとか、共和制の放棄によるなどさまざまですが著者は「魚は頭からくさる」と言い指導階級の腐敗堕落が最大の原因だといいます。

それではなぜ腐敗堕落が起こったかと言えば、帝国躍進の原因となったポエニ戦役勝利による莫大な富の流入でした。「興隆の要因が衰退の原因となる」塩野七生さんの喜びそうなテーゼです。

人口減少も直接的にこたえたようです。「農民に産児奨励補助金を出さなければならぬほどだった」というくだりは子育て手当で紛糾する今の日本の私達には笑えない現象ですね。

労働力不足に乗じて流入した外国人(蛮族)の数があまりにも多くかつ急速でローマはかってのようにそれらを吸収同化できなかったと言うのです。

外国人労働者に拒絶反応を起こすヨーロッパの国々、純血を守ろうとする日本、歴史は我々になにを語ろうとしているのでしょうか。

それでは目次にしたがってメモしてみましょう。

35・イエス
  よく知られたイエスの一生を簡潔に示している。 
  当時のユダヤは3度に亘るローマへの反乱により帝国からの苛斂誅求は最も厳しい属州のひとつであり民衆はイエスが再び反乱のきっかけとなるのではないかと恐れた(期待した?)。 

36・使徒
 ペテロは新宗教の組織面でパウロはイデオロギーの面でそれぞれ貢献をした。
 パウロはユダヤ人特有のカミソリのような鋭い知性に恵まれ性格は横柄で短気、時に偏見に陥った。(著者に糺してみたいところである)
 パウロよりペテロの方が人望が高かった。
 家庭(社会)は避妊と捨て子の悪習で死に瀕していたがキリスト教徒はこれに断固抵抗した。彼らのモラルの高さ強烈な使命感が社会に好感を以って受け入れられた。(シェンケーヴィッチのクオバディスにも同様な記述がある)

37・ヴェスパジアヌス
 ネロの死でクラディウス王朝は滅び、反乱をおこしてネロを死に至らせたスペイン総督ガルバが即位するが親衛隊の反感を買い暗殺される。親衛隊は銀行家のオトーを新帝にするがこれに反対してゲルマニア派遣将軍ヴィテリウスとエジプト派遣将軍ヴェスパジアヌスが反乱を起こす。オトーは自殺、ヴィテリウスが皇帝となるがヴェスパジアヌスの軍にクレモナの戦いで敗れヴィテリウスは殺害されヴェスパジアヌスが帝位に就き財政再建のため努力する。ユダヤで大規模な反乱が起きたが、アウグストス以降最善の治世といわれ79年に死去。

息子のピューリタン的なティトウスが即位、国庫を空にして難民を救い自らも難民看護によって感染死。
弟のドミティアヌスが継位、初めは善政を布くが後半は強迫観念にとらわれて恐怖政治をやり側近に暗殺される。

アウグストス以降126年間に10人の皇帝が立ち7人までが非業の死を遂げるという帝国のありようは異常という外はない。 

38・享楽のローマ
 戦争と迫害と産児制限によりかっての名家は殆ど断絶した。
 母親は子育てを放棄、乳母と家庭教師が子育てをする。
 哲学はアテナイ、医学はアレクサンドリア、弁論術はロードスに留学した。
 大邸宅に住み、牛乳風呂に入り、妻も情夫を持つようになった。
 公衆浴場、スポーツジムも完備された。

39・経済
 首都に産業はなく富の源泉は官の利権取引と属州からの収奪であった。
 自作農は減少し、奴隷の供給が減り小作人が増加した。
 職人的家内工業が発達し属州では鉱業が栄えた。
 街道10万キロが整備され物流に貢献した。
 数学はギリシャに及ばなかったが応用力は勝っており、干拓、大水道、道路建設などに遺憾なく発揮された。
 小麦の需給調整、失業対策事業、通貨調整によるインフレ抑制など経済政策を行った。
 銀行も存在した。 

40・娯楽
 ローマの休日はアウグストス即位時、年間76日(現在と同じという?)最後の皇帝の時 175日(日本は2012年で116日)
 演劇は低調であったが大競技場での戦車競走(ベンハー)剣闘競技は盛んであった。
 剣闘競技には動物、人間がかり出された。(マリウスやスラの殺し合いを喜んで見物した ローマ人の嗜虐性は競技場で涵養されたものだという説もある)
 セネカのみは否定的で一度はみたが二度と競技場に行かなかったという。

41・ネルヴァとトラヤヌス(五賢帝時代)
 ドミティアヌスは後継者の指名をしないまま暗殺された。元老院は弁護士で詩人のネルヴァを皇帝に推戴、ネルヴァはドミティアヌスの悪政を回復した。
 親衛隊とは対立もあったが元老院とは協調した。ゲルマニア遠征中のトラヤヌスを後継者に指名して死去。
 トラヤヌスも元老院を尊重し、都市計画、工学、建築の歴史の中で最高のものを完成させた。一方、版図はインド洋まで拡大、最大となった。

42・ハドリアヌス
 トラヤヌスは後継指名なく没した。皇妃プロティーナの推輓でトラヤヌスが後見人であった同郷のハドリアヌスが皇帝に即位。 軍部を抑えて外征の停止、官僚制度の確立、法体系の整理に着手し地方を巡回した。
 後継者に弁護士で敬虔なアントニヌスを指名カエサルの称号をおくる。
 ハドリアヌスも善政を布くが信長のような複雑な近代人であった。 

43・マルクス・アウレリウス
 アントニヌスは富裕な銀行家の孫で敏腕弁護士だった。元老院は彼を「最良の君主」と呼び、後継者マルクス・アウレリウスを「美徳の権化」と称した。
 アントニヌスの妻と娘(マルクス・アウレリウスの妻)は素行が悪かったが夫たちは高徳の君主であった。元老院とも協調して善政をしいた。
 次のマルクス・アウレリウスも賢帝といわれストア哲学に熱中し実践したペルシャ、エジプトの反乱軍を鎮圧、ペストが蔓延する中でゲルマンの侵入を制圧する。息子のコンモドウスを後継者に指名し死去。「瞑想録」の著者としても有名。

44・セヴェルス朝
 コンモドウスは競技場での闘争を好む帝王で陰謀ありとの密告を信じ叔母のルキラを殺害、親衛隊長を通じて恐怖政治を行うがのちに親衛隊長とキリスト教徒であった愛妾マルキアにより毒殺された。
 親衛隊は帝位を競売にかける。銀行家のディディウス・ユリアヌスが一旦落札するが属州将軍セプティミウス・セヴェルスが再落札しディディウスは殺害される。
 セプティミウスは王位を世襲制にした。(セヴェルス朝)
 セプティミウスは妻ユリア・ドムナとの間にカラカラとゲタを儲ける。
 兵制を改革しイタリア人の兵役を禁じ100%外人部隊とした。
 セプティミウス死後カラカラは弟ゲタを暗殺、内政は母ユリアにまかせる。
 シリアに出陣中部下の将兵により暗殺され、ユリアも自殺する。
 ユリアの妹ユリア・マエサの孫エラガバル(カラカラの落胤?)が帝位につく。
 内政は祖母マエサが行う。マエサはエラガバルの資質に失望しエラガバルとその母親(マエサの娘)を殺害し従弟のセルヴェス・アレクサンデルを擁立。
 マエサの死後アレクサンデルの母マンマエアが善政を布く
 母子二人ともキリスト教徒でストイックであった。

 ゲルマニア人との紛争でアレクサンデル提案の和平条件に軍が反発、アレクサンデルと母マンマエアを殺害。パンノニア派遣将軍ユリウス・マクシミヌスを新皇帝に推戴。235年. 

45・ディオクレチャヌス
 マクシミヌス即位後50年間は軍人皇帝時代といい、本文中だけでも8人の皇帝の内5人が自殺、戦死1人、捕虜1人、ペスト死1人という混乱時代となる。
 284年に解放奴隷の子、ディオクレチャヌスが帝位に就くとローマよりニコメディアに遷都。(日本における平安京遷都に似る?)  
 ディオクレチャヌスは東帝(正帝:アウグストウス)ディオクレチャヌス 首都ニコメディア(副帝:カエサル)ガレリウス 都(ユーゴスラビアのスエリムスカ) 
 西帝(正帝)  マクシミリアヌス 首都ミラノ
   (副帝)コンスタンティウス・クロルス 都(ドイツのトリアー)
 と帝国四分割統治とする。 
 301年の勅令(物価統制令)など政治に尽力したが誓約を守り305年両帝とも退位。
 ディオクレチャヌスは平衡感覚と良識のある皇帝だった。

46・コンスタンティヌス
 両帝退位ご後継をめぐり戦争が起こるがコンスタンティウスの庶子、コンスタンティヌスが勝利、戦勝に功あったとしてキリスト教を支援する。(壬申の乱の伊勢神宮の如し?)
 教会はエルサレムよりローマを本拠地とする。カリストウス教皇は分派活動を抑え中央権力の確立を図った。 教会は国家の行政組織を学び帝国の衰弱と共にその職務を代行する。 教会はギリシャ人の哲学、ユダヤ人の倫理、ローマ人の行政能力を受け継いだ。  
 著者は「教会は滅びゆく帝国の私生児でありながら、帝国の遺産相続人に指定されていたのだ」という。

47・キリスト教の勝利
 かってローマの宗教は国家機構の一部であった。
 皇帝崇拝の拒否は国家に対する服従の拒否に通じると思われローマ古来のモラルと相入れなかった。(日本においてもそうであった) キリスト教徒を死罪にする法律があったがトラヤヌス、ハドリアヌスは厳しく運用しなかった。マルクス・アウレリウスから迫害がはじまりディオクレチャヌス帝でピークに達したが殉教記録は逆に伝道の武器になった。コンスタンティヌスはミラノの勅令でキリスト教徒を擁護した。
 当時のキリスト教徒の高い道徳性と有能な資質は圧倒的であった。
 「革命は思想の力によって勝利するのではない。従前よりすぐれた指導階級を作り上げることに成功したとき革命は成功する。キリスト教はまさにこの事業に成功した」
(明治の日本も内村鑑三、新渡戸稲造などが影響力を持った時があった)
 その後コンスタンティヌスはミラノの勅令を撤回、キリスト教を国教とする。 
 ニカエア宗教会議においてアリウス派を異端排除、キリストの神性を確立、
 コンスタンティノポリスに遷都、ローマは一属州となる。 

48・コンスタンティヌスの遺産
 コンスタンティヌスは遺言で帝国を五分割とし紛争の種を作った。
 3人の子と2人の甥の間で殺し合いが起こり(337年)コンスタンティウス(次男)が勝利する。同族が死に絶えたなかで甥(幼児)のガルスとユリアヌス生き残る。
 ガルスは副帝になるが暴政のため処刑されユリアヌスが副帝となる。
 ユリアヌスは皇帝の意に反し皇帝軍の攻撃を受けるが皇帝の死去と皇帝の指名により即位。 ユリアヌスは背教徒として有名であるが彼は信教の自由を認めようとした。
 ペルシャとの戦闘で戦死する。(辻邦生の「背教徒ユリアヌス」を参照)

49・アンブロシウス(司教)とテオドシウス(帝)
 ペルシャ戦から撤収後皇帝ヴァレンティニアスは西方を皇弟ヴァレンスは東方を治める。
 ヴァレンティニアス死でグアディアヌス即位(西) 一方ゴート族によってヴァレンス(東)敗死、グラディアヌス(西)はテオドシウス即位(東)を支持。
 グラディアヌスは部下によって暗殺されるがテオドシウスは暗殺者を処刑、幼帝ヴァレンティニアス2世(西)をミラノで即位させる。
(この頃はまだ東西が助け合っていた)
 司教アンブロシウスが台頭、皇帝の命に従わず逆に皇帝との会見を拒否、皇帝の教会への立ち入りを禁じたり皇帝の権力を凌駕した。

 ミラノのヴァレンティニアス2世は部下によって暗殺されテオドシウスは簒奪者を敗死させる。この時ゴート族の隊長アラリックが勝利に貢献した。
 テオドシウスはミラノで没しアルカディウス(18歳)とホノリウス(11歳)の二人の息子が残った。

50・終末
 ホノリウス(西ローマ帝国)とアルカディウス(東ローマ帝国)の東西紛争はホノリウスの名将ゲルマン人のスティリコの奔走によって講和となるが東はことごとに西の足を引っ張る。
 西は都をミラノより防衛のしやすいラヴェンナに移す。
 スティリコは健闘するが讒言を信じたホノリウスにより処刑される。
 蛮族ゴートの将アラリックがローマに侵入、皇女ガラと結婚するアラリックの死後アタウルフはローマを劫掠、アタウルフの死後ガラは将軍コンスタンティウスと結婚、子供のヴァレンティヌス3世はホノリウス死後の皇帝となる。(425年―455年)その後20年の間に蛮族将軍による皇帝擁立は7人となったが最後の皇帝ロムルス・アウグストス帝が蛮将オドアケルにより廃され名実ともに帝国(西)は滅亡した。

最後に「51・結び」がありますが冒頭に一部をご紹介しました。
 
murao