2012年1月30日月曜日

読書会20120119「ローマの歴史」(第1回)

「ローマの歴史」モンタネッリ著 藤沢道郎訳(中公文庫)

ローマ帝国の歴史については、イギリス文学の白眉とされるギボンの衰亡史(平家物語の滅びの美学?)、共和制を賛美したモンテスキューの盛衰原因論、最近では塩野七生のローマ人の物語と参考書はたくさんありますが量と読みやすさから本書を選びました。

それでも大部なので3回に分け第一回目はローマの起源からポエニ戦争の終わりまで (1-186ページ)までとします。

まずローマの起源譚(神話)としては当時の文明の再高峰を誇りアレキサンダー大王も心酔したギリシャ文明の影響を大きく受けた内容となっています。
それにしてもロムルスとレムスの生まれたばかりの双子が舟で流れついたり、兄(?)の レムスをロムルスが鋤で撃ち殺す場面は何処かで見た風景ですね。 

実際はラテン、サビ―ニ人を中心にエトルリア人も加わり多民族の集団であったようです。
特にラテンサビーニ系は農耕民族であったのにエトルリア系は通商民族であり内部での厳しい相克がありました。
(日本では縄文人と弥生人との相克はどうだったのでしょうか、出雲神話とか、古事記の日本尊などがそうだったのでしょうか、いづれにしてもローマのように異民族との抗争が延々と続くような地理的な環境でなかったことは幸せだったというべきでしょう。)

いずれにせよ異民族の渦中で闘争に明け暮れたヨーロッパの種族の間では古くから戦いという日常がDNAのなかに強い影響を与えていて、ローマ人はその申し子のような存在であったようです。モンテスキューは「人(ヨーロッパ人)は決してローマ人から離れることはできない。」と述懐しております。

「ローマは一日にして成らず」王政から共和制に至る中でローマは何度も戦いに敗れ亡国の危機に見舞われますが、人民の徳性と元老院を中心とした良識に救われ最後はハンニバルを倒しカルタゴを殲滅して地中海の王者となります。 

余談ですが、ユダヤ人によるカルタゴという古代地中海の第一級の文明がローマ人によって跡形もなく消滅させられ、今では往時を偲ぶよすがすらないことは残念ですね。



それでは目次にしたがって内容をメモしてみました。 

① ローマの起源
ローマの始祖ロムルスはトロイ戦争生き残りの勇士アエネアスの子孫でアエネアスの母はヴェヌス(ヴィーナス)父はマルス(マース)とされる。
ロムルスは双子のレムスとともにボートでティべル河に流されたが狼に育てられた。
ロムルスはある日兄レムスを鋤で撃ち殺し初代の王に就く。(以上が神話部分)

歴史的には北方民族による文明があった(ヴィラノーヴァ文明)中心はウンブリア人、サビ―ニ人、ラテン人が中心であったがエトルリア人が参入したのでサビーニ人との間に同盟を結んで対抗する。 

ローマ人はアエネアスの以来の純血種としての召命感に似たバックボーンに支えられて戦い続ける。 

② あわれなエトルリア人
エトルリア文明はティレニア(海)であった。ティレニアはエトルリアの別名。商人であり貨幣経済を持ち快楽主義者であり団結心に欠ける。農民中心で禁欲的であり団結心に富むローマ人とは対照的であった。著者はローマの始祖はエトルリア人ではないかと指摘する。

③ 農民王
二代目王ヌマ・ポンピリウスは哲人政治家で聖者とされている。(中国の堯、舜のごとし)祭政一致で王は家父長的存在であった。
王はラテン、サビーニ、エトルリア3種族のクリア会議で選出、元老院が生まれる。
ケントウリア会議(百人隊)会議が王権を越えており王は平時はクリア会議、戦時はケントウリア会議の決定に従い執行は元老院の承認を必要とした。(ローマ人は専制君主の出現に対して古代よりナーヴァスであった)
5人の農民王の時代は陸の民であった。 

④ 商人王
BC600年ころ父ギリシャ人、母エトルリア人の子タルクニウスが王になり版図を広げた。戦勝による奴隷と富の流入によって都市計画が進んだ。

息子のセルヴィウスは都市の完成や法制の基礎を固めたが専制をおそれた元老院によって暗殺。3代目タルクイヌス2世も領土拡大に励んだが追放されBC509年共和制になる。王位継承には元老院が隠然たる影響を及ぼしていたようだ。

⑤ ポルセンナ
BC494年エトルリア人の反乱(亡命タルクイヌス2世が後ろで糸を引く)
帝国時代の版図の大部分を失う。背景は商工業を代表するエトルリア系市民と農業、貴族、軍団を代表するラテン・サビーニ系市民の抗争であった。この間カルタゴとは同盟を結んで後顧の憂いを断った。

⑥ SPQR(ローマの元老院と人民)
人民とは建国者の末裔である貴族と富裕層の騎士を指していたが、平民の権利要求が高まり要求貫徹のため平民は聖山(モンテサクロ)に籠った。
折から蛮族の侵入もあり元老院は譲歩し平民より護民官(2人)造営官(3人)を選出することと(BC494年)十二表法の制定(BC451年)を約束した。
それまで法は明文化されず裁判は神官(貴族)の専権事項であった。
元老院は議員をギリシャに派遣してソロンの改革の業績調査のうえで法制を作った。 

⑦ ピュロス(サムニテス戦争)
カンパニア地方のサムニテス人と戦い勝利(第一次サムニテス戦BC343-341年)ラテン連盟を解体し分割統治を行う。
第2次サムニテス戦(BC327-304年)勝利でアドリア海進出、タラント支援に駆けつけたピュロス王を破り(BC275年)イタリア全土を支配下に入れる。
イタリア全土への植民政策をとりローマ化を図る。貴族平民間の通婚を認め、元老院、裁判官の開放など平民権利の拡充を行う。このころ知事、裁判所、警察、法典、税務署、など国家の概念が出来上がる。

⑧ 教育
家父長は絶対者であった、女性は三従を強いられた。
善良な子より規律正しい子、服従、勇気、犠牲的精神が尊ばれた。(武士道?)
ポエニ戦争終わりまでは父が子(男?)の教師であった。OJT?
ラテン語は語彙が乏しく豊かな表現はギリシャ語でなければできなかった。(必要性?)
金持ちは税も軍務も多く負担した。十年の軍務で最高の立法機関であるケントウリア会議のメンバーとなり、公職に就くことができた。

⑨ 立身の道(政治官僚制度)
最高位の執政官(コンスル)も次席の監察官も十年の兵役を終えた市民で構成されるケントウリア会議で選出されるが元老院の意思が隠然たる力をもっていた。聖山籠城以来できたトリプス会議は護民官、軍事護民官を選出した。非常時には元老院によって独裁官(ディクタートル)が指名された(任期1年)
著者は元老院について「順境には欠陥を露呈したが逆境には真価を発揮した」といい、ピュロス王の使者の話を伝えている、「ローマには王はいないが、あの三百の元老院議員の一人ひとりが王なのである」
⑩ 神々
ギリシャの神々だけでなく神の数は多かった。被征服地の神々も加わり三万はいた他民族の神に寛容であったのは統治のためにも有効であった。

⑪ 市民生活
エトルリア系の王たちと違って共和政府はケチで粗野であった、都市計画的な野心が乏しい、クラディウスのとき(BC312年)やっと上水道が完成。
戦争による農村人口の減少、被征服地拡大による大地主の増加。
指導者層は地主的で商工業は不振、道路未発達、船団なし、貨幣制度も未発達だった。
個人の自由、学芸の愛好、会話、哲学、ユーモアなどヘレニズム的なものに欠ける。
忠誠、質実剛健、服従、実行力にすぐれた国民性であった。

⑫ カルタゴ(ポエニ戦役まえの姿)
フェニキア人(セム族=ユダヤ)の都市。
アレキサンダーの被征服地から亡命した富裕層が中心でネイティヴは奥地へ逃れたか奴隷となった。農業、金属業が栄え世界最大の船団を擁し通貨は国際通貨であった。
神はフェニキアから連れてきたバール・アスタルテ。
政治は三百人の元老院が行う。(ローマは真似した?)原住民の傭兵が主力。
海軍は最強だが陸軍は軽視された。
なおカルタゴの歴史的遺物はローマによって徹底的破壊を受け現存する物は殆どない。

⑬ レグルス(第一次ポエニ戦争・BC264-241)
緒戦はカルタゴ優勢で執政官(軍司令官)レグルスは捕虜となる、レグルスは和睦のための道具に使われそうになるが敢然として死を選ぶ。後半戦はローマが有利でハンニバルの父ハミルカルの勇戦及ばずローマに和を乞う。ローマは賠償金とシチリアを得る。

⑭ ハンニバル(第二次ポエニ戦争BC218年-201年)
カルタゴに内乱がありそれに乗じてローマはサルディニア島占領、ガリアキサルピーナを併合(ミラノに首府)
ハミルカルはスペインで軍を養成中死去ハンニバルが後継者となる。ハンニバルは象の軍団とともにアルプスを越えローマ軍は連戦連敗のすえカンネの野で大敗を受ける。(BC216年)

⑮ スキピオ
二代目スキピオがカルタゴに出陣ザマの野の戦いでハンニバルと対戦し決定的勝利 (BC202年) ローマに繁栄が訪れるが風紀は乱れる。

⑯ 征服されたギリシャが・・。
ギリシャはアレクサンドロスによってまたローマによって征服されたがその文明のゆえに都市の潰滅は免れていた。(アレクサンドロスはヘレニズム文明の伝播者であった)
しかし第三次ポエニ戦争(BC149-146年)時反抗したギリシャはローマによって叩かれた。(コリント劫掠)
第三次ポエニ戦争はローマの挑発によって始まりローマの一方的勝利に終わった。カルタゴは徹底的に破壊され現代にもその痕跡は残っていない。

カルタゴは国の名前も消し去られその時からアフリカと呼ばれる。 

(第一回目了)

murao